映画と映像とテクストと

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『フォードvsフェラーリ』を観た

2020年。ジェームズ・マンゴールド監督。とても面白かった。ある種の古臭さがとても気持ちの良い映画だ。ケンの妻の存在などは、その典型的な要素だろう。フォードとフェラーリの戦いは、何を象徴しているのか?というのは、この映画を批評する上での最もプリミティブな問いになるだろう。個人的には、その戦いの先に何もないという虚しさこそが、この映画を支配するもののように思えた。車で速く走れたからと言って、一体それがなんだというのか。その無意味さこそが、実はヘンリー・フォード2世エンツォ・フェラーリの戦いにも共通するのかもしれない。

 

息子の存在とか、アイアコッカの存在が、なんだか浮いているような気もするが、そういう若干歪な細部も含めて、とても愛せる映画だったように思える。そしてその古臭さも含めて確かに2020年の映画だと言えるのではないだろうか。同監督の『ローガン』にはあまり感心しなかったが、本作はとても良いと思った。

『シン・ゴジラ』を観た

2016年。庵野秀明総監督。見れば見るほど、大したことない映画だなぁと思うんだけど、それでもやっぱり楽しく観てしまう。この映画は、2011年3月11日の最も心地いいドキュメンタリーを見るような楽しさがある。

 

庵野秀明はとにかくエンタメ体質の人であり、まともな大人であるからして、その自らのエンタメ体質を恥ずかしがるがゆえに、あえてわがまま風の気取ったような演出をしてしまうのでないかと思う。カヨコの存在もまた、そういう「あえて」をやらないと尻がむず痒くなるのだろうと思う。

『殺人の追憶』を観た

2003年。ポン・ジュノ監督。とにかくいちいち面白い。話が巧みに展開するのでも、見事なセリフがあるわけでもないんだけど、とにかく魅せる。映画としての品質が高くて飽きない時間を過ごせる。

 

ポン・ジュノ監督は、なぜこんなにも魅力的な画を撮ることができるんだろう。彼のスローモーション演出などは、本当に見事で、それもこれも画の力強さが高いから様になってしまう感がある。殺人の持つ官能性も、世情の不安さも、警察の横暴さも、全てが繋がっていることを監督自身は知っているのに、はっきりそうとは言ってくれない。この焦らしこそポン監督の魅力であるように思う。良い悪いを超える、などと言ってしまうととても凡庸なんだが、監督はその超える何かを映画というもの自体に仮託しているように思える。

『ほえる犬は噛まない』を観た

2000年。ポン・ジュノ監督。ポン・ジュノ監督はとても分かりやすい映画を撮るけれど、とてもインテリなんだろうな、分かってやってんだろうなということを常に感じさせる。本作は、そういう意味で、とてもポン監督のインテリっぽさが分かりやすく出ている映画ではないかと思う。

 

ポン・ジュノ監督には、独特の不連続性を感じる。気持ちよく走っていると、不意に急ブレーキを踏むような、つんのめるような気持ちを与えてくる。悪事を描いても、その悪事に対する憎しみとかそういうものはあまり感じない。その出来事に対して、ぼっ〜と傍で見つめ続けるような、そういう他人事感が素晴らしい。だからこそ平気で急ブレーキを踏んでくる。それは一種の照れなのか、なんなのか。すごくステキな態度だと思う。

『巴里の屋根の下』を観た。

1930年。ルネ・クレール監督。ああ、映像が切ないというのは、こういうことを言うんだなと思った。歌声が消えていくラストシーン、煙突の見える様々な家の屋根と空。人間のいたたまれないほどの小ささと、その掛け替えのなさ。1930年というトーキーとサイレントの狭間の作品。

 

話の展開の細かいところなどは、大雑把な印象も受けるのだけど、演者のコミカルな演技であまり気にならない。人情喜劇という趣きの豊かさを感じる。床に落ちたパンや花、通りから扉を通して見えるバーの店内、俯瞰で撮る狭い路地、縦に連なるアパートの窓。どれもこれも撮っていることの意図が明確に感じられて、見ていてとても気持ちがいい。人生が変わる人と変わらない人との境界が、切なく優しく切り取られる。面白かった。

『ドーン・オブ・ザ・デッド(ディレクターズカット版)』を観た

2004年。ザック・スナイダー監督。かの名作『ゾンビ』(1978年)のリメイクを作るというのは、なかなかどうして勇気のいることだろう。ショッピングモールという舞台設定だけが同じで、あとは全く異なる作品になったが、素晴らしいゾンビ映画であると思う。

 

本作の魅力は登場人物たちの持つ魅力に因っている部分が大きい。例えば、銃器店のアンディ。ショッピングモールの屋上と銃器店の屋上とで、双眼鏡とスケッチブックで会話をする。ほとんど顔も見えないし、声も聞こえないアンディの存在が、不思議と癒しのように思えてくるのが面白い。おそらく明確なコミュニケーションが取れないことでより一層アンディがいい奴に見えるのではないだろうか。また、CJもなかなか良いキャラだ。CJとの序盤のやりとりなどは『ゾンビ』続編の『死霊のえじき』(1985年)の軍人の存在を少し想起させる。CJは最初は憎たらしいが、後半には段々と好感度を上げていき、最後にはかっこいいところを見せるのが良い。ティム・ロス風味の主人公格マイケル(ジェイク・ウェバー)も、この状況になる前では全く冴えない男である。彼は、そんなゾンビサバイバルにおいてほとんど役に立たなさそうな設定でありながら、観客のイメージする「普通の人」を最も心地よく表現したキャラクターであり、誰もが彼を応援してしまう。ところで、犬を助けにいくために無謀なことをするニコールは反省した方がいい。

 

スナイダー監督お得意のスローモーション演出は控えめながら、さすがだと感じた。スローモーションって、安易に使うと基本ダサいんだけど、そのダサさを骨抜きにして、適切に使ってくるスナイダーは改めてすごいと思った。

 

設定と展開で魅せるオリジナルとは異なり、キャラクターの魅力で観客を楽しませる本作は、脚本のジェームズ・ガンザック・スナイダーの力量の確かさを示す重要な作品でもあると思う。

『真昼の決闘』を観た

1952年。フレッド・ジンネマン監督。わずか90分に満たない映画ながら、実に緊張感が漲っていて、見ていて本当に楽しかった。なぜ男は結婚したての日に妻の制止を振り切って、街に残ろうとするのか。その理由を問われ、「よく分からない」とするところが素晴らしい。正義のためであり、街のためであり、プライドのためでもあり、男のあるべき姿へのこだわりでもあり、同時にそのすべてでもない。3対1という不利な状況をどのように乗り越えるか?というようなところにはほとんど重きが置かれていないところが逆に面白い。悪党をほぼ1人で3人やっつけるような凄いことを成したとしても、決してヒーローではない。ヒーローではない男のカッコよさ。

 

映画が始まってから、ほぼリアルタイムに物語が進んでいくという趣向もたしかに魅力であった。面白かった。