映画と映像とテクストと

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『宮本武蔵 一乗寺の決斗』を観た

1964年。内田吐夢監督。吉岡一門との決着が描かれる4作目。前作で清十郎を倒して、次は弟の伝七郎に狙われる。三十三間堂での戦いはなかなかかっこいい。遊郭吉野太夫が全てを見透かすようなことを言うのも、なんだか面白い。すごいんだか滑稽なんだか、よく分からない。そのふんわりと宙に浮いて、気持ちや理解の落ち着き場所が覚束ない感じが面白い。いや、面白いのかどうかも覚束ない。

 

ラストの一乗寺の下り松での決闘。武蔵が最後は「来るなー、来るなー」と叫びながら逃走する。あれだけの大人数を相手に負けていないのに、子供は殺してしまうは、田んぼの中で泥だらけになりながら叫ぶわと、現代の一般的な(?)宮本武蔵像とは違う印象の武蔵が描かれる。有名な作品ながら、ちゃんと見てみると「こういう映画だったんだなあ」とつくづく思う。原作はどういう感じなんだろう。

 

このシリーズ、お通さんと子供の城太郎が出てくると、凄く冷める。そういう印象が強くある。

 

『宮本武蔵 二刀流開眼』を観た

1963年。内田吐夢監督。序盤から実に面白い。花を切り落としたその切断面を見て、石舟斎の力を武蔵が見抜くというワクワク展開で気持ちが昂る。

 

本作は吉岡清十郎にかなりフォーカスが当たっている点が面白い。名人の子供であり、京都一の道場の主人であり、門弟からは常に大切に扱われつつも、佐々木小次郎からはすぐに大したことがないと見抜かれる。女にも嫌われて、無理矢理手篭めにした女は自殺を図ろうという始末。悩めるエリートが当たり前のように武蔵に敗れ、そこで初めて観客を緊張させるような意地を見せる。負け役の面白み。

 

しかし3作目まで、シリーズを通してひたすら女への扱いが酷すぎるのが、面白い。武蔵も子供も素浪人も武士も、とにかく女を人間扱いしないという法でもあるのかと思うほどにひどくて、ウケる。

『宮本武蔵 般若坂の決斗』を観た

1962年。内田吐夢監督。蔵に篭った武蔵がいきなり真人間になったかと思ったら、3年間ひたすら待ち続けたお通を捨てて剣の道に生きると言う。なんだか、とんでもない女の振り方をする。しかしお通は健気に武蔵を追おうとする。すべてが狂っていて大変面白い。

 

今作で吉岡清十郎が出てくるが、その道場にやってくる武蔵はヒゲモジャなのに、場面が転換するといつものあの姿。なんで吉岡道場に行った時はあんな姿だったのだろう。

 

本作でストーリーのキモとなるのは槍の宝蔵院。おいしい場面は胤舜ではなく、月形龍之介演じる日観和尚。最後に武蔵が叫ぶ「殺しておいて合掌念仏。嘘だ!違う!違う!違う!敗れて何の兵法があろう!?剣は念仏ではない!命だ!」のセリフはなかなか熱いが、最初聞き取れなくて何を言っているのか分からなかった。原作にはないセリフだそうで、より野卑な宮本武蔵像が、映画では描かれているのかなと思った。悟りきっていない男、というところだろうか。

 

腕を切ったり、首を刎ねたり、血がドビューと吹き出たりと、ラストの決闘の場面はグロくて楽しい。あの残虐さから坊主の念仏という落差。今作も武蔵が強豪剣士に勝つというような場面はない。

 

ところで、本作が公開された年に原作者の吉川英治は死んでいる。

『ブローニュの森の貴婦人たち』を観た

1945年。ロベール・ブレッソン監督。面白かった。ブレッソンの映画の中でもかなり話の筋を追い易いし、分かりやすい。振られた女の復讐の物語。復讐といっても、かわいらしい復讐という気もする。

 

動きが少なく、そこに神経が張り詰める気持ちよさ。ブレッソン映画の入門としては最適ではないかと思った。親娘の新居にある窓辺の映るシーンが素晴らしい。あの構図はずっと見ていられるような気持ちがする。なんでこんなに絵に魅力があるのだろうか。参ってしまう。

『宮本武蔵』を観た

1961年。内田吐夢監督。叫ぶ。みんなが叫ぶ。それがちょっと面白い。そして笑う。狂ったように笑う。最後、武蔵が牢に入れられる流れがすごく急テンポで、なんというか、それもおかしな感じがして面白い。そして武蔵が書物を読み、学問を学ぶことでいきなり「命をいとおしむべきだ」みたいに開眼してしまうのも面白い。今まで散々好き放題しておいて、いきなりそうなる。静かにみんなが狂っているようにも見える。

 

宮本武蔵というタイトルから期待されるような剣豪同士の決闘のようなシーンは全然ないし、宮本武蔵のカリスマ的な魅力を演出するような作品ではないが、それでも2時間、退屈しないで楽しく見れた。続きも気になる。セットの豪華さなど見るべきところが多いのもあるが、途中から出てくる沢庵和尚の存在も大きい。野卑で身勝手な人間ばかりが出てくる戦国の物語の中で、唯一人間の言葉が通じそうな沢庵和尚が、見ている者の安らぎどころになっている。

 

『12人の優しい日本人』を観た

1991年(平成3年)。中原俊監督。『桜の園』の監督の作品だということを今回初めて意識して見たが、独特のセリフの間合いとか、室内の埃の舞いが光をたたえるような感じが、確かに『桜の園』に似てるような気もした。三谷幸喜の脚本が面白いのはもちろんなのだけど、映画としてもなかなか見所があると思う。廊下を正面から捉えたシーンとか、会議卓を中心にした線対称な構図とか、とても狙ったシーンではあるけれど、決して主張しすぎない感じがあって、これをもう少し撮りたいものを撮ってしまうと、作品としての焦点がブレるのかもしれない。

 

中村まり子演じるキャリアウーマン風?の役どころとか、現代ではありえない描き方で、そういうところも興味深い。自分の青春時代でもある1991年の映画だけど、こんな感じだったなぁとも思うし、え?!こんなんなの?とも同時に思う。今なら、登場人物の半数は女性にするだろうな。

 

直感や勘で終始無罪を主張していた二瓶鮫一と林美智子が、結局のところ(エセ)インテリである相島一之に勝つという構図は、裁判員制度という観点からも面白い設定であるように思う。明らかに「良い者」であるところのトヨエツが、無知・無教養だが良い人であるその2人の味方をするわけで、この劇が疑問に思っていなさそうな純粋な正義がそこに唯一存在している(しかし、若干その正義に疑問を感じるからこそ、弁護士ではなく俳優だというネタバレを最後にしたのかもしれないが)。それは物凄く裁判員陪審員)制度が持つ理念とは遠くて、『十二人の怒れる男』に対するアンチテーゼであり、皮肉な態度にもなっている。だから『12人の優しい日本人』は薄っぺらいという批判もできるかもしれないが、ただ、人が人を裁くということにおいて、その三谷幸喜の観点もまた普通に無視できない話ではないか、なんてことも思ったりする。

 

なんというか『十二人の怒れる男』の「陪審員として議論を尽くして正義に至る」という、いかにもそれが良きアメリカ市民なんだみたいな態度が若干鼻につくよね、とは思うわけで。そういう意味で、このタイトルの日本人、というのはアメリカ人じゃない(=『十二人の怒れる男』の世界の拒絶)というようなニュアンスもあるのかもしれないなと思った。

 

『バンテージポイント』を観た

2008年。ピート・トラヴィス監督。面白かった。かなり色々と都合が良すぎたり、甘い感じはあるんだけど、最初の23分間を繰り返す構成はそれなりに機能していて、面白い。出てくる俳優陣がえらく豪華。安っぽい感じがとにかく見やすさに繋がっている。

 

ラストが子供の危機一髪での救出と偶然すぎる大統領の発見で終わらせるところは、やや弱さもあるんだろうが、逆にこのこじんまりとした感じが、この映画を少し上品にしているかもしれないと思った。