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『トイストーリー4』を観た

2019年。ジョシュ・クーリー監督。素晴らしい作品だと思った。『シュガーラッシュ・オンライン』もそうだったけど、過去作に比べて、まとまりのなさはあるんだけど、その発散し続けるスタイルこそが、とても今風だとも思った。

本作で最も素晴らしいと思ったのは、フォーキーを助けられずウッディだけが助けに戻ろうとするシーン。ボーやその仲間たちは諦めて帰ろうとするんだけど、ウッディだけは諦めない。なぜそんなに子供たちのためのオモチャでいることにこだわるのかと問われ、ウッディは「忠誠心」と答える。それに対して、他のオモチャたちは「気持ち悪い」と言い放つ。これは本当面白いシーン。ちょうど綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』を読み終わったところだったところもあり、色々繋がるように思ってしまった。

ウッディはある意味アイデンティティ・ポリティックスへのこだわりを見せたのだと思った。それはもはや自由を満喫している「リベラル」なオモチャたちにとっては「キモい」のかもしれない。しかし、ボーは言う「そこが愛すべきところなのだ」と。そう、おそらく他のオモチャたちが信奉するシチズンシップよりもアイデンティティの方が「エロい」のだ。「キモい」からこそ「エロい」。

ウッディは自らのボイス装置というアイデンティティを失い、しかしそれを犠牲にして「子供に愛される」というアイデンティティを貫く。本作の悪役であるところの人形は成敗されず、最後に救われるところも面白いが、個人的にはウッディが自らの「変化」を受け入れたところが面白いと思った。ここで重要なのはウッディは全く違ったモノへ変化をしたのではなくて、従来の価値観を維持しながら「半端に」変化しているというところ。ここが素晴らしいと思った。仮に自由を賛歌する物語なら、子供のオモチャでいるという価値観から自由になって、無限の彼方に飛び立つだけでいい。しかし子供のオモチャでいるという価値観は維持している。そういう古臭い価値観を維持しながら、しかし新たな世界に飛び立っている。

ディズニーはこれまでポリコレという観点から最先端を進もうとしてきた。それはそれで意味があったしすごかったのだけど、そのことによるある種の「分断」に気づいたのではないかと思う。その分断を埋めることはできないか、そういう視点を新たに開拓しようとしたのが『トイストーリー4』なのではないかと思った。

 

【追記】

4を見た後で、初代『トイストーリー』が見たくなったので、見た。思ったよりも4が1のストーリーやモチーフを踏まえているような気がしたので、メモとして書く。

・自分より愛されるオモチャが現れた時のウッディの態度というのが1も4も物語の序盤の展開の鍵になっている。1であればバズだし、4であればフォーキー。

・1ではバズに嫉妬したウッディがラジコンカーを操作して机と壁の間にバズを落とそうと画策する(失敗して庭に落としてしまうという惨事になる)。4では排水溝に落ちたラジコンカーをウッディが命を賭して逆に助ける。

・ボーが4ではえらく勝気なお嬢さんだという印象だけど、1のラストで自分からウッディを押し倒してキスをするという積極性をボーは既に見せている。

・1ではイタズラ少年シドがオモチャの人体改造を行うが、4ではウッディからボイス装置を取り出されるという改造行為がなされる。

・1のラストでアンディを追っかけるバズとウッディによって比較的軽めの交通事故が起こるが、4でも車を勝手に操作するオモチャ達により事故が起きかねないという事態が発生する。

・子供の遊びの景品としてオモチャが登場する。1ではUFOキャッチャー、4では射的。

・4ではアンティークショップにいるネコが中ボス的に登場するが、1ではシドの飼っていたスカッドというイヌが中ボスの役割を担っていた。

まあ、ほとんど私自身の勝手な思い込みだとは思うのだが、以上のような点が1と4の類似点というかオマージュ的なものとして挙げられると思った。