映画と映像とテクストと

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『太陽がいっぱい』を観た

1960年。ルネ・クレマン監督。主人公のアラン・ドロンが一体何を考えているのか。そこに精神というか、主体というか、そういうものを感じ取れないところがあって、その不気味さが面白い。アラン・ドロンが虐められる場面でも、彼が殺人を犯す場面でも、彼がサインを練習する場面でも、すべてにおいて、アラン・ドロンの身体、肉体が気になる。身体が精神から自立して動いているように感じられる不気味さ。それでいて、遺産を分捕るという、すごく人間臭い所業をなしている。そのギャップ。映画だからこそ、というか、視覚芸術としての映画だなぁと、なんだか当たり前のことをつくづく思ってしまった。

 

また自分自身だけでなく他人をまともに人間扱いしないことの、ある種の清々しさというのもアラン・ドロンのキャラクターから感じる。この緊張感というのは、サスペンスの持つプロットとしての緊張感とはまた別物なんだけれど、すごくこのプロットと輻輳する印象があって、それが独特の体験になっているように思った。