映画と映像とテクストと

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『12人の優しい日本人』を観た

1991年(平成3年)。中原俊監督。『桜の園』の監督の作品だということを今回初めて意識して見たが、独特のセリフの間合いとか、室内の埃の舞いが光をたたえるような感じが、確かに『桜の園』に似てるような気もした。三谷幸喜の脚本が面白いのはもちろんなのだけど、映画としてもなかなか見所があると思う。廊下を正面から捉えたシーンとか、会議卓を中心にした線対称な構図とか、とても狙ったシーンではあるけれど、決して主張しすぎない感じがあって、これをもう少し撮りたいものを撮ってしまうと、作品としての焦点がブレるのかもしれない。

 

中村まり子演じるキャリアウーマン風?の役どころとか、現代ではありえない描き方で、そういうところも興味深い。自分の青春時代でもある1991年の映画だけど、こんな感じだったなぁとも思うし、え?!こんなんなの?とも同時に思う。今なら、登場人物の半数は女性にするだろうな。

 

直感や勘で終始無罪を主張していた二瓶鮫一と林美智子が、結局のところ(エセ)インテリである相島一之に勝つという構図は、裁判員制度という観点からも面白い設定であるように思う。明らかに「良い者」であるところのトヨエツが、無知・無教養だが良い人であるその2人の味方をするわけで、この劇が疑問に思っていなさそうな純粋な正義がそこに唯一存在している(しかし、若干その正義に疑問を感じるからこそ、弁護士ではなく俳優だというネタバレを最後にしたのかもしれないが)。それは物凄く裁判員陪審員)制度が持つ理念とは遠くて、『十二人の怒れる男』に対するアンチテーゼであり、皮肉な態度にもなっている。だから『12人の優しい日本人』は薄っぺらいという批判もできるかもしれないが、ただ、人が人を裁くということにおいて、その三谷幸喜の観点もまた普通に無視できない話ではないか、なんてことも思ったりする。

 

なんというか『十二人の怒れる男』の「陪審員として議論を尽くして正義に至る」という、いかにもそれが良きアメリカ市民なんだみたいな態度が若干鼻につくよね、とは思うわけで。そういう意味で、このタイトルの日本人、というのはアメリカ人じゃない(=『十二人の怒れる男』の世界の拒絶)というようなニュアンスもあるのかもしれないなと思った。