映画と映像とテクストと

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『大いなる西部』を観た

1958年。ウィリアム・ワイラー監督。2時間47分の長丁場。しかし見ていて飽きない。ずっと楽しく見れてしまうのは、すごい。結構、細部は強引だという印象もあるのだけど、それでも「そういうもんかな」と思って見れてしまう。

 

グレゴリー・ペック演じる東部の男ジムの行動規範がよく分からない。暴れ馬のサンダーに乗る練習をなぜ内緒にするのか。牧童頭リーチとの喧嘩をなぜ誰にも知られない時間と場所で行うのか。それがことさら誰かに強さを誇示するためでないからカッコいいのだ、というのはよく分かるし、実際カッコいいと思う。純粋に自分のためだと理解することもできる。しかしやはり謎なのだ。なぜ誰にも求められてないし不要でもあるのに、サンダーに乗ったり喧嘩をするのか。それは他でもない、映画を見ている観客に示すためではないのか?と感じられる。その行為をする必然性をもう少し物語の中で表現して欲しかった気もする。しかし、そんな疑問を感じつつも、やはり楽しく見れてしまうところがこの映画の魅力なんだろうと思う。

 

テリル家とヘネシー家という2つの地元有力者の対決の中でのロマンスというと「ロミオとジュリエット」のような話を想像してしまうが、最後は全く別のヒロインと結ばれるというのも面白い展開。そのヒロインである学校教師が主人公の強さと勇気を見抜き、それを補完するというのは観客の気持ちをくすぐる。西部という力が支配する世界で、知を象徴する教師が正しさを得る。大枠はそういう話なわけだが、テリル家の当主がたった1人で相手方に進軍し遅れて部下たちが付き従うシーンでは、そうした旧来的な力によってねじ伏せようとする男がカッコよくも描かれている。もちろんそういう人物たちは、割りを食うのだけど、それでも単に古臭くてダメな存在としないところに西部劇の良さを感じる。アナクロで保守的なものを簡単に切って捨てない、それは大衆迎合的なのかもしれないが、やはりそこにはある種の懐の深さがある。その点は、テリル家よりも粗野なヘネシー家の当主の描き方からも感じる。最後にどんどん株を上げるヘネシー家当主のルーファスには、乱暴な男だけれど彼なりの正義があることが感じられて面白い。

 

だからこそ、最後、当主同士が撃ち合って、それで死んで、はい終わり、みたいな終わり方にはちょっと納得できなかった。なんというかすごく面白い映画だったのだけど、最後の最後に拍子抜けしてしまったような気がする。