映画と映像とテキストと

映画や読んだ本などの感想を書きます。ビデオゲームについてはこちら→http://turqu-videogame.hatenablog.com/

『モダン ・タイムス』を観た

1936年。チャールズ・チャップリン監督。やはり苦手なチャップリン。デモ行進にいつの間にか紛れて、大人数をチャップリンが率いることになってしまうあのシーンは本当に凄いと思った。結局チャップリン自身が政治的な主張をするわけではないし、市井の人の象徴であるのも分かるのだけど、「正しいこと」をそういう脱政治的な演出で描くことが、逆に今の時代は難しいのかもしれないなとも思う。そんな風に、よく考えると、意味の分からないシーンなんだけど、それでもやっぱり素敵であることには変わりない。凄い才能だと思う。しかし苦手だ、チャップリン

『翔んで埼玉』を観た

2019年。武内英樹監督。意外に面白かった。ギャグとしてやる悪ノリもそんなに嫌な感じがしなかった。結構真面目さが作品に通底していて、それを感じ取ったからかもしれない。

 

終盤で加藤諒が「馬鹿にされるのが嫌だったのに、薄ら笑いを浮かべてなんでもないフリをしてた」みたいことを語るセリフがある。こういう足元のしっかりした言葉が出てくるところがいい。『ブロメア』もこのぐらいのセリフが1つでもあれば、良作になっただろうに。

 

娘を結婚式に連れて行く夫婦が話全体を通して描かれるわけだが、これもとてもいいクッションになっていた。現実とファンタジーの境目の存在として、橋渡し役を担っていた。軽薄な映画ではあるけれど、とても座りの良い映画でもあったと思う。

 

 

『チャップリンの黄金狂時代』を観た。

1925年。チャールズ・チャップリン監督。雪山の山荘の絵といい、室内の絵といい、実に素敵。しかし僕はどうもチャップリンの映画が苦手だ。なぜなのかよく分からないが、尻の座りの悪さを感じてしまう。

 

チャップリンのあの顔がとにかく苦手。とても立派な人だし、賢い人なんだろうと思うが、どうしても大人しく話を聞こうという気持ちになれない。おそらく私がまだまだ子供で、幼いからなのかもしれない。

『さらば、わが愛/覇王別姫』を観た

1993年。陳凱歌(チェン・カイコー〕監督。とにかくテンポがいい。印象的なエピソードがポンポンポンと立て続けに展開していく。歴史物語としても、恋愛劇としても、人間ドラマとしても、とにかくよくできていて面白い。

 

中国政府の描き方も、そんなに良い風には描いてないんだけど、これがちゃんと見れる形で公開され、ソフト化もされていることは、映画ファンとして幸運なことなのかもしれない。

 

自分にとって青春の映画であり、この映画が撮られた時代にリアルタイムで生きてきたことが少し誇らしいような気持ちになる傑作。やや大仰にも思える演出がグッとくるところも良い。

 

『時をかける少女』を観た。

1983年。大林宣彦監督。尾道は確かに絵になる。ただ、何がこの映画の魅力であるのか、最後までよく分からなかった。SFとしての物語は、普通に楽しめるもので、なるほどと思うわけだが、これが映画として何を見せたいのか分からなかった。自分には大林宣彦が撮りたいものを感知するアンテナが欠けているように思う。

 

原作を未読なので分からないのだが、ラストのリーディングシュタイナー的な要素は、やはりその展開が持つ甘さというのが、結構くどく感じてしまう。普通にSF物語を描くのならば、「彼らは一切思い出の記憶を持たず、互いに気づかなかった」とする方が普通だろうと思う。だからこそ、その甘さの構造に「リーディングシュタイナー」という名前を付けた『シュタインズゲート』は面白いなと思う。名前が付けられることによって、そのくどいほどの甘さは、どこか構造的なもののようにやや食べやすいものへとアップデートされる。

 

少女的なもの、思春期的なもの、恋愛、友情、学校、性、そういうロマンの入れ物になりやすい要素が、そのままロマンの入れ物として差し出される大林版『時をかける少女』の直截性には、随分とやられてしまったところがあって、少々、胃もたれを起こした。決して傑作ではないかもしれないが2006年の細田版『時をかける少女』ぐらいの方が素朴に楽しめる。そんな細田版も、もはや14年前の作品だと思うと、めまいがするのだけど。

 

『太陽がいっぱい』を観た

1960年。ルネ・クレマン監督。主人公のアラン・ドロンが一体何を考えているのか。そこに精神というか、主体というか、そういうものを感じ取れないところがあって、その不気味さが面白い。アラン・ドロンが虐められる場面でも、彼が殺人を犯す場面でも、彼がサインを練習する場面でも、すべてにおいて、アラン・ドロンの身体、肉体が気になる。身体が精神から自立して動いているように感じられる不気味さ。それでいて、遺産を分捕るという、すごく人間臭い所業をなしている。そのギャップ。映画だからこそ、というか、視覚芸術としての映画だなぁと、なんだか当たり前のことをつくづく思ってしまった。

 

また自分自身だけでなく他人をまともに人間扱いしないことの、ある種の清々しさというのもアラン・ドロンのキャラクターから感じる。この緊張感というのは、サスペンスの持つプロットとしての緊張感とはまた別物なんだけれど、すごくこのプロットと輻輳する印象があって、それが独特の体験になっているように思った。

 

『ミッドサマー ディレクターズカット版』を観た

2020年。アリ・アスター監督。うーん。なんというか、世代、なんだろうか。一つ下の世代の、うまく腹落ちしない感覚。歳を取ったのかな。前作『ヘレディタリー』は、そうしたモヤモヤを感じつつも「まだ、面白い」と思えたけれど、本作には強い反発心を覚えてしまう。

 

すごく空虚であるように思う。その理由は明確だと思っている。本作の舞台がスウェーデンである理由も、伝統的な祭りである理由もなくて、ただ「ぼんやりとした一般的な印象」というものをひたすら適切に裏切ったり、切り貼りしていく感じがあるからだ。それは巧みであるのかもしれないが、「だからなんなの?」と思わずにもいられない。前半の女性主人公がなんとなく(友人や彼氏の中で)ウザい感じを放ってるところとか、すごく面白いのに、その手のリアリティから意図的に離れていって、ホラーファンタジーの世界に進んでしまう。これが前半と後半が逆の構成なら、多分、自分も納得できたのだと思うが、本作は逆。『ヘレディタリー』もそうだった。アリ・アスター監督にはポン・ジュノと似たような印象があるんだけど、ポン監督はもう少し真面目というか、着地点がリアリティに近いところに落ちる。アリ・アスター監督の開けっ広げの野原のど真ん中に置いておかれる感じが、自分の肌にちょっと合わないというのは、あると思う。