映画と映像とテクストと

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『宮本武蔵 巌流島の決斗』を観た

1965年。内田吐夢監督。面白かった。確かに全5作の中で、1番を決めたら第4作目の『一乗寺の決斗』になるかもしれない。しかし、この5作目はかなり全体として引き締まっていて、実にテンポよく話が進む。特に長岡佐渡役の片岡千恵蔵が実にいい。武蔵の味方として、その堂々たる感じが見ていて好ましかくて、安心感がある。

 

高倉健佐々木小次郎もなんだか高倉健だと思うと面白くなってしまう。お殿様の里見浩太郎も若い。子役の伊織(金子吉延)は、個人的にはこれまで出ていた城太郎(竹内満)よりも好ましく思えた。派手な戦闘はなく、武蔵も子供を殺してしまったことを闇として背負うような物語であり、陰鬱な雰囲気の物語と思いきや、見た後の味わいとしては意外に清涼感があるようにも思った。

 

また、全五部作を最後まで見て思ったのは、中村錦之助がどんどん魅力的に見えてきたなぁということ。武蔵が画面に映ると、それだけで嬉しくなってしまうし、画面が引き締まったような感じを受ける。なかなか面白い大作だった。

 

『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』を観た

2020年。外崎春雄監督。ブームに乗るのは実に楽しい。というわけで、早速見てきた、劇場版「鬼滅の刃」。TVアニメよりも豪勢になったかなと思うが、概ねTV版の延長として、とても楽しめた。面白かった。

 

鬼滅の刃」はとってもダサい作品で、あらゆることを言葉や捻りのない表現で説明してしまう。常に説明過多である。何か美しいものがあったとして、例えば炭治郎の心が美しい、と表現するのに「美しい」とそのままの言葉で表現してしまう。あからさまに「美しい」情景で無意識(無意識!)の美しさを表現してしまう。普通、こんなにもあからさまだと恥ずかしくなってしまうわけだが、それを堂々と、そして恥じらいなく表現するところが本当に面白い。

 

こうした「鬼滅の刃」のダサさを馬鹿にすることは簡単だと思うのだが、やはりこの「美しいものを『美しい』と言ってしまう」やり方というのは、現状、無視できないところがある。だからこそ「こういう鬼滅みたいな分かりやすさやダサさが最近は大切なんだよ」みたいな物言いには、軽薄さを感じるし、そうそう簡単に受け入れてたまるかという気持ちもなる。確かにこれを良しとする時代感覚との適合は、クリエーターなら商売としては必要なのだろうが、素朴に気の毒に思ってしまう。炭治郎のキャラクターの表裏の無さというのも、そういったものとおそらく通底しているのだろう。*1

 

それより、この「鬼滅の刃」という作品が面白いのは、とても「ポリコレ」であるところだ。オタクには嫌われがちな「ポリコレ」がここでは受け入れられていることは、とても面白い現象だと思う。「ポリコレ」などという言葉自体がアンチポリコレ的なものだと思う人もいるかもしれないが、ポリコレはもはや常識となりつつある支配的なイデオロギーなのだと「鬼滅の刃」の人気っぷりを見ているとつくづく感じる。

 

鬼滅の刃」のどのような点をポリコレと感じたのか。上手く説明できないところもあるのだけど、思いつくところを列挙してみたい。

まずは炭治郎の顔の傷。おそらく少年漫画で顔の傷を持つ人物というのはいっぱいいると思うのだけど、こんなにも「カッコよさ」に貢献しない大きな傷を持つ人物は珍しいのではないだろうか。わりとキレイな顔立ちなのに、純粋に減点となりそうな傷のある主人公は新鮮に感じた。

ラッキースケベ的なものの無さも感じる。最近は批判される事も多いラッキースケベだが、(アニメしか見てないので原作では分からないが)「鬼滅の刃」では全然そういうシーンが無いという印象がある。善逸は少年漫画でありがちな女の尻を追っかける系キャラだけど、善逸の女の求め方って「奇妙」で、どこか性欲を感じない。これは男の人だと理解してもらいやすいかもしれない。これは今までの女好き男性キャラに感じていた性欲の刹那性みたいなものを感じないということだ。ラッキースケベがあまり無いように思えるのも、そうした少年漫画が描いてきた刹那の(その場だけの)快楽との距離を感じるということかもしれない。ただ、これをポリコレと言っていいかはよく分からないし、そうしたラッキースケベがない少年漫画は他にもいっぱいあるので、「鬼滅の刃」特有の話とするのは牽強付会かもしれない。

あと、これはもう感触というものでしかないが、「鬼滅の刃」はかなり意識的にポリコレ地雷を踏まないようにしているという印象がある。もちろんネット上には「鬼滅の刃」にもジェンダーバイアスを示すセリフがあるというツッコミはある。しかし、主人公レベルの主要キャラが「お?それはちょっとアウトじゃね?」と思うセリフを全然言わない。例えば、伊之助などは野蛮な生まれなのに、不自然なほどに地雷を踏まない。彼は人道的に大きく踏み外すことは言ったりやったりするのに、微妙にポリコレでアウトなことは不思議と言わない。これはやはり作り手の意識を感じさせる。

 

そして、本作『無限列車編』では、ダイレクトに「弱者は死んで当然」と語る敵が登場する。そしてそれを「嫌いだ」として議論の余地なく主人公側は否定する(煉獄さんのセリフ)。もちろん「鬼滅の刃」の「ポリコレ」は素朴なエリーティズム(強い者が弱い者を守るべき)によって根拠づけており、それをポリコレと呼んで良いのかはよく分からない。それをパターナリズムとして批判することも可能だろう。しかし、内面化されたポリコレの自然な表出として、「鬼滅の刃」は随所にその顔を見せる。そのあまりの自然さがすごい。そしてそれを多くの人がほとんど無意識に受け入れていることがすごい。一昔前の漫画を読むと、あれもこれもアウトそうだな、と普段ポリコレなんて意識しない人でも気付くように、みんななっているのではないかと思う。

 

細かい話になるが、個人的に面白かったのは、鬼に操られた人間の1人が炭治郎のことを「なんか存在がシャクに触る」と表現していたところだ。これはとてもアンチポリコレの実感を表現しているように思える。「その理屈の正しさとかは置いておいて、ポリコレ的なものの存在それ自体がシャクにさわる」という感じ。炭治郎はとにかく政治的に正しい存在である。あまりに正しすぎて、その正しさがほとんど奇人のレベルに到達している。彼の「公正さ」は一種の特殊能力のようにさえ描かれている。鬼の側に堕してしまった人間から見ると、それはとてもシャクに触る存在だろう。操られた人間のうちの1人だけが改心するが、その人間は炭治郎の「異常な」心の美しさを目撃した人間であった。炭治郎は「おかしな」人間である。その正しさ、美しさが異常なのだ。しかしできればそうありたい、ポリコレ的に正しい存在になりたいという憧れが実はあるのではないだろうか。ポリコレがなんらかの制約や縛りだと捉えられている反面、現代は既にポリコレを「憧れのモノ」にしているのかもしれない。手に入れようと思ってもなかなか完全には手に入らないが、否定しようと思っても否定できない正義。特殊なエリートだけが100%我がモノにできる行動様式。ポリコレはもはや欲望の対象になっているようなところがある。だからこそ憎まれもする。

 

『無限列車編』は後半、とにかく泣かせにかかってくる。現場の登場人物のほぼ全員が、そしてカラスでさえ泣いている。泣いていることを肯定しすぎである。その底抜けの素朴さはとても滑稽ではあるのだけど、どこか笑えないようなところがある。

 

*1:ダサいものはダサい。しかし、それで良いという気もする。しかし……。と、しかしの逆接がループする。とは言え、最後は「まあ、少年漫画だしな」に帰着する気もします。

『プラダを着た悪魔』を観た

2006年。デヴィッド・フランケル監督。面白かった。テンポも良くて、細部も品がいい。原作に比べてミランダ(メリル・ストリープ)はより甘くなってる感じもあるそうだが、それはそれでエンタメ的で悪くなかったと思う。アン・ハサウェイのかわいさもさることながら、メリル・ストリープがとにかく素敵だった。ファッションに全く興味のない自分にとっても、なんだかきらびやかなファッション業界がとても素敵に見えた。覚悟が決まっている人間は実に気持ちがいい。

 

最後に元彼との元さやに収まる感じなど、やや残念な感じもあるだろうが、そういうのも含めて、きらびやかな世界を自ら去っていく展開なのは興味深いと思った。その生き様が2006年という時代の感覚として共感得るものとしてあっただろうことが面白い。2020年の今では、より一層「あんなドギツそうな世界より普通の新聞記者の方がいいでしょ」となるのだろうか、それとも「あんな好条件なキャリアを活用しないなんてもったいないでしょう?」となるのだろうか。なんとなく前者の人の方が今だとより多そうな気がするがどうなんだろうか。ロマンや夢が、一筋縄でいかない、意外に複雑な欲望の絡み合いなのだと示しているように思えるところが、この作品の魅力のように感じた。

 

 

Netflix『アグレッシブ烈子』を観た

2018年〜2020年。ラレコ監督。2020年にNetflixに配信されたシーズン3までを視聴した。とても素晴らしい作品だった。見る前まではOLのあるある系アニメだろうと思っていたが、いやたしかに実際そうなのだが、凡百のショートアニメに比べると遥かに練度と精度の高い素晴らしい脚本によって構成された巧みな作品だった。『タラレバ娘』とかを楽しむ感じで楽しめる「濃さ」を持っている。

 

大手町、田園都市線三軒茶屋など具体的な固有名詞が多少出てくるものの、そうした現実世界の物事を単にそれっぽく使ってリアリティを出しているわけではなくて、ありがちなエピソードに潜む細部の所作や言動に圧倒的な適切感があって、唸る。同僚のフェネ子の人の良さなど、気持ち良さも鋭さもあり、とにかく全編にわたり安心感がある。「分かってる者の犯行」だという感じが強く、素晴らしい。

 

シーズンごとに毎回大変なことにはなるのに、ちゃんと日常へと帰ってくる。上司とあんなにやりあってしまいどうするのか(シーズン1)、話題のIT社長との恋愛がどう収束するのか(シーズン2)、地下アイドルとして名が売れてしまってどう会社に戻るのか(シーズン3)。全て筋だけ聞いたら、やや強引に最後は話をまとめていると思えるのだが、その着地点にまで持っていく手練れが毎回素晴らしい。デスボイスという飛び道具にもちろん頼りつつも、それだけではない丁寧な手当てが毎回なされている。例えばシーズン3のラストのカラオケシーン。ハイ田のことを散々キモいと烈子に言わせて、その上でハイ田に烈子の手を握らせるという流れは素晴らしい。どうして納得できるのかは分からないが、なんだか納得してしまう。アイドルだって辞めなくて良いじゃん?とも思うわけだが、それを収めてしまう手際は本当に凄い。

 

日本のNetflixオリジナル作品には微妙な評判が立つことも多いが、本作は世界で戦える品質も持った良質ドラマとなっていると思う。

 

『ナイブズアウト〜名探偵と刃の館の秘密』を観た

2019年。ライアン・ジョンソン監督。スターウォーズ本編シリーズの中で唯一まともな映画を撮ったライアン・ジョンソン監督の作品ということで、見たいと思っていたが、なかなか見れなかった。ようやく見てみたが、とても楽しかった。

 

ミステリらしさが序盤に詰まっていて、しかもそれが凄いスピードで語られていく。自殺か他殺か不明な事件、一癖ありそうな名探偵、問題を抱えていそうな富豪の一家、カラクリ的な仕掛けのある邸宅、物言わぬ老婆、特殊な身体的性質、クラシカルなミステリ要素がふんだんに散りばめられて、それだけでかつてのミステリファンとしてはワクワクしてしまう。しかもそうした要素が矢継ぎ早に語られて、贅沢に次々と消費されていく展開は新鮮でもあり、決して凡庸な展開でもない。単に真相を焦らし続けるわけではなく、早々に主人公の行く末が気になるサスペンスとして盛り上がるところは実にキャッチーで楽しい。

 

現代の社会情勢を踏まえた点も面白く、正にトランプ的な排外的態度がサラッと皮肉られている。スマホ中毒でネトウヨになる子供は馬鹿にされていて、その親たる大人たちは移民である主人公に優しさを持っているように描かれているものの、ひとたびその親たちも当然だと思って享受している権利が侵害されると化けの皮が剥がれて、排外主義に転がり落ちる。その様子がとても分かりやすい。もちろんここで皮肉を言われ批判されているのは白人たちなわけだが、彼らが「自分の家」と思っているものを全く納得いかない形で奪われていく様子に、監督は全然同情や共感を抱いていないかというと、そうでもないような気がする。いやもちろん彼らに肩入れするつもりはないのだろうけど、彼ら白人たちの普通さや邪悪で無いこともまた、よくよく理解しているように思える。だからこその問題のややこしさなのであろう。

 

絶大な権力を持つ老人の「思いつき」によって主人公は力を得るわけで、それは別に社会的な公平さや正義によって彼女は救われているわけではない。そういう社会問題として「正しく」この物語が展開されていないところが、ある意味この作品の分かりやすさでもあるだろうし、誰でも(トランプ的反知性主義でも)この物語を受け入れることができる「良さ」になっている面はあるだろう。

 

本作は全てがサイコーな映画だというわけではないが、しかし手元で愛でたくなるような愛嬌があり、かわいげがある。好きな映画だなぁとしみじみと思った。

『ダンケルク』を観た。

2017年。クリストファー・ノーラン監督。『テネット』を見たことだし、前作を見たくなって、見た。ノーランは大して面白くない話を本当に面白そうに撮るなぁと思う。あまり知的ではないかもしれないが、印象的な画も多い。

 

戦争の一体何を描きたいのか、よく分からない。反戦というのとも違う。人間ドラマというにはどこか薄っぺらい。極限状態での人の有様というには妙に間が抜けている。もちろん戦争の英雄を華々しく描きたいわけでもない。ただ、なんというかこういう感覚で戦争を描いていることは、とても正直だと感じるし、何より現代の多くの人にも共有しやすい価値観なんだろうなと思う。ノーランの映画が世界的にヒットしていることを考えると、この感覚は決して日本人だけじゃなく、世界的にも何か通じるものがあるのだろう。

 

戦争という舞台を扱いながら、そこで描かれるサスペンスとして、コックピットのハッチが開かなくて水が下から迫ってくる、なんていう平凡なアクション映画的エピソードを大ごとのように据えたりしてくる、この感覚。冷めたような人の生き死にの描写をリアリズムと言って良いのか、正直よく分からない。でもなんと言うのだろう、この綺麗なパッケージに整然と整列して並べられたような感じが、凄く現代的だという感覚はある。かけがいの無い古典的な傑作である一冊の文庫本を町の小さな老舗の古本屋で手にとるようなロマンが、ノーランの映画にはない。同じ古典作品の電子書籍Amazonで買っても、別にそんな違いはないでしょ?という雰囲気をノーランには感じる。別にいいじゃん、むしろキレイで清潔じゃんってな感じ。

 

1週間と1日と1時間を圧縮して、並行的に見せるという本作の特徴的な構成も、果たしてどういう意味があったのか分からない。それによって臨場感が生まれたとも思わないし、通常の時間感覚を狂わすことで生まれるドラマがあったという印象もない(ラスト、砂浜で全ての時間が一致することに特にカタルシスもなかったような気もする)。もちろんその手法の魅力を理屈づけて批評することはいくらでもできるだろうが、なんだかそれも正直に言えば虚しい。ただ、1週間苦しむことも、1時間で捕虜になることも、それぞれの体験がそれぞれに良い悪いや重い軽いの違いもなく「ただある」んだよ、という感覚がある。これはやはりとても「正直」だなと思う。なんというか本当に正直。

 

ノーランはその作品が持つ正直さが、ある種の誠実さとして受け止められているのではないかなぁと思った。

 

『TENET(テネット)』を観た

2020年。クリストファー・ノーラン監督。ややこしい話。でも楽しかった。みんなが盛り上がっているのも、なんだか楽しい。コロナで映画館に行けなかったけど、こうしてイベント的に盛り上がるキッカケになっていることには、なんだか感慨深いものがある。

 

ノーランの映画は面白いと思うし、同時に、どーでも良いとも思う。プロットを奇抜にしつつも、ギリギリダサくしない(ダサい)上手さがとても見応えがある。それはオタクが憧れる何かであるわけで、その美学にはいつまでも頑張ってほしいなと思う。

 

最後、船から男を落とすところの、首がゴキュっとなっていかにも痛そうな、ああいう感じ。ああいうところが本当に見事だなあと思う。