2026年。クリストファー・ノーラン監督。3時間、長かったけど、楽しく観れた。面白かった。しかし、そこまで特別な映画とも思えなかった。IMAXで見ると違う!という意見はとても理解できるし(自分はIMAXでは見てないけど)、そういう楽しみ方をすべき映画だという評価であればよく分かる。ただ、これが世紀の傑作か?と言われたら、「いやそれほどのものでは……」と思う。というかここ最近のノーランの映画はどれもそう感じる。『インターステラー』も『テネット』も『ダンケルク』も。
ただ、「色々な理念や正義はあるかもしれないが、人は自分の求める物語こそを紡いで行くしかないのだ。そしてそれは決して小さい物語なのではなく、大きい物語(オデッセイ)なのだ」という割り切りには共感するところもある。それはとても時代にも呼応した感覚だろう。「割り切り」と書いたが、決してヤケクソでそこに至るわけでもないし、最後に愛する妻との旅に出かけるのも様々な葛藤の果ての行動なのだと理解はできる。しかし正直に言えば、「なんじゃそりゃ」とも思ってしまう。
原作のように帰還して王に返り咲く、という風に描けないところに、とても脆弱さを感じる。やや意地悪に言うなら「なんや、重い責任の部分は息子に譲って、自分は弔いの旅かよ。おいしいとこだけ、自分、取りすぎやないか?」と。周りの人間たち(求婚者たちや横暴な客人たち)を暴力で跪かせておいて、スッと王位からは身を引くというのは、評価が難しい。キレイな感じもするが、キレイすぎる印象も受ける。
また「ゼウスの掟」、これは私などは昨今の多様性とかDEIとか移民の寛容な受け入れとかのポリコレ的なものを指すのかと思った。というか明らかにそう解釈させる誘惑を意図してることは間違い無いだろう。そして最後にこの掟をオデュッセウス自身に破らせて、図々しい客人全員をぶち殺しエンドに進むというのはなかなか過激だ。そしてめちゃくちゃ楽しいところでもある。もちろんこれが単に「ポリコレぶち壊し」を狙っているのではなく、ある種の「理念の破壊」というような、より抽象度の高い主題として書きたいのだとは思う。しかし、最後に行き着くのが「部下の弔い」と「奥さん大切にする」というのは「なんじゃそりゃ」とも思う。弔いも近親者を大切にすることも、とても大切だが、それを大切にするために「捨てている」ものとそうするに足る根拠が絶対にあるはずで、それを曖昧にしか描かないでいることには、どうも歯切れが悪いと言うか、やや卑怯な感じがする。
「ゼウスの掟」はどうなったんや、気に入らなければ捨てて良いのか?そして、その自分の物語を優先する根拠はなんなんだ?と。まさか「トロイア戦争で騙して勝利の英雄になったけど、トロイの町の破壊の凄惨さを思い返すと俺も勝手だったなあ」と感慨深い気持ちになったことが、その根拠だと言うのか?だしたら、やっぱりそれは「なんじゃそりゃ」と思ってしまうんよな。
わたしはノーランの描きたいことが本当に分からないのだと思う。
【追記 2026.09.16】原典のホメロスの『オデュッセイア』では、「ゼウスの掟」の双方向性、互酬性が強く意識されているという話を聞いた。モースの『贈与論』などをベースにした解釈のようだ(フィンリー『オデュッセウスの世界』など)。
要は「ゼウスの掟」というのは単に「客はもてなすべき」という主人側の掟というだけではなく、「図々しくあってはならない」という客側の掟でもあるというのだ。なるほど、原典においては、その両側の倫理が作品に通底しているのだとするなら、非常に良くできたお話だと思った。オデュッセウスが最後に客人を殺しまくることにも理由がある。それは客が掟を破っているからだ。そして殺しまくったオデュッセウスが神の怒りに触れて不幸にならないのも理解できる(「ゼウスの掟」を破った客を殺しただけだからだ)。
仮にそうだとするなら、やはり「ゼウスの掟」のもてなす主人側の倫理が強調されたノーラン版『オデュッセイア』は、とても「意味が取りにくい」お話になってしまっているように思えた。本映画ではオデュッセウスが単に支離滅裂な男に見えてしまう。いやまあそれはそれで魅力にもなるとは思うのだが。