映画と映像とテクストと

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『鏡の中の女』を観た

1976年。イングマール・ベルイマン監督。『鏡の中にある如く』よりは私は楽しく見ることができた。若干空回りというか、ん?という所もあるのだけど、それでも中々見せてくれる。ホラー映画的なイメージもとても楽しかった。ベルイマンはなんだかんだ言ってもサービス精神の旺盛な人だなと思う。その分かりやすさには、やはり、ベルイマンでしかない価値がちゃんとあるように思う。

 

精神科医の女性が、どんどんと狂ってくる、というのはなんとも危うげなテーマであるが、もしかしたら、専門家やプロからすると許せない表現も結構あるのかもしれない。冒頭で「芝居してるのわかってる」とか、あんな物言いを医者が患者にするかな、と思ったりした。ただ、例えば愛と死の統合の詩を「幼稚だ」と言ってみたり、所々、ベルイマンらしい「寸止め」を見せるところは、面白いと思ってしまう。抑圧だと思う祖父母たちの、老いた2人だけの心暖まる関係なども、どこか100%の気持ちで気持ちよくさせないところは、ベルイマンの良さなのだろうと思う。

 

赤の使い方が印象的だと言われるが、あまりピンとこない感じもあった。棺桶が燃えるところは良かった。トーマスと主人公との会話も面白かった(ちょっと観念的すぎる感じもあるが、まあ、それも含めて)。ところどころ、好きになれるところがあったと思う映画だった。

 

『鏡の中にある如く』を観た

1963年。イングマール・ベルイマン監督。いちばんベルイマンの作品の中でピンとこない映画だった。狂気の娘、作家である父親の素朴な芸術感、性への欲望を持て余す弟、妻への愛と人生をそつなくこなす医者である夫。

 

あらゆる通俗さが、これまで好きだったベルイマンの通俗さと、同じようでいて、少し違うような。なんとも面白く感じられなかった。ベルイマンってこんなもんだっけ?という印象があった。

『沈黙』を観た

1963年。イングマール・ベルイマン監督。嫌悪し合う姉妹のホテルでの生活。妹の一人息子を含めた3人のチグハグで奇妙な有り様が、過剰に性的なイメージで彩られる。

 

セックスや裸体の表現はもちろん、自慰行為、少女的なドレスを着させられる少年、劇場での人目を気にしないセックスなど、意味を考えさせる以上のイメージで押し切っていく感じが、強引ながら妙な納得感のある抑制とともに画面に映されていく。小人の劇団のイメージもよく分からないけれど、戦時下にありそうな不穏な世界観とやや不謹慎にマッチしている。

 

ホテルのイメージは、キューブリックの『シャイニング』などを最初想起したが、妙に暑がるところなどはコーエン兄弟の『バートン・フィンク』も思い出す。ホテルという存在が持つ歪さが凄くよく出ていて、そこは見応えがあった。

 

ベルイマンの映画というのは、分かりにくそうで、ものすごく分かりやすい。この分かりやすさは、なんというか、評価に戸惑うようなところもあるけれど、やはり自分はとても好きだ。「どんな主義主張も負けてしまう、あの怖ろしい力に…」とはどんな力なのか。インテリの姉の苦悩とは何で、愚かな妹の苦しみとは何か。すぐに何かが思いついてしまい、その分かりやすさとは一体何なんだろうと考えてしまう。

『ゴジラ VS メガロ』を観た

1973年。福田純監督。Netflixの『ゴジラSP』を楽しむ前に見ておいた方が良いとの話をネットで見て、見てみた。何を楽しめば良いのか、難しかった。理不尽さや滑稽さは確かに楽しいのだけど、それを楽しむ時間が少しもったいないと思ってしまう。私の貧乏性が悪いのかもしれない。ただ、時折見せる「大人が作っている」という感じのチラ見せ感が興味深かった。まあ、うん。

『グーニーズ』を観た。

1985年。リチャード・ドナー監督。テレビで久しぶりに放映するとのことで、録画して観た。冒頭のカーチェイスが素晴らしいと思った。個々の要素は、今見ると色々キツイところはあるのだけど、それはそれとして、とにかく懐かしかった。吹き替えも当時のままかな。なんというか喘息の薬も、やたらと騒ぎまくるヒロインキャラも、キスシーンも全てが懐かしかった。フリークスの表現も、今だとさすがにああいう風に素朴には描けないだろう。その他、人種や性別などについても、今の人が見ると違和感は強いところは多々あるだろう。ただ、アジア系がいて、スペイン語を話す移民がいて、デブがいて、虚弱体質の主人公がいる、というのは中々面白い組み合わせだなと思った。素朴な時代の良さ、というのをやはり私は能天気に感じてしまう。

『シン・エヴァンゲリオン 劇場版:||』を観た

2021年。庵野秀明総監督。今の日本のアニメの実力がこれなんだと思うと、少し寂しい。いや、庵野さんが別に日本の代表というわけでもないんだろうけど、なんというかこんな子供っぽい物語を描くことに注がれた心血の量を思うと、茫漠とした気分になる。おそらく気の遠くなるほどの努力と熱意と才能が注ぎ込まれたのだろう。25年経っても、この程度の話しか描けないということは、やはりエヴァには「何もなかった」ということが改めて明らかになっていて、でも劇場版は毎回それを明らかにしているようにも思うし、なんなら、この結論も25年前から散々言われてきたことだったような気もする。「何もない」ことを分かった上で楽しんできたのではないかと言われればそうだが、「何もない」という声がもっと大きくても良かったと毎回話題になるたびに思う。この作品を観た帰り道には、『スパイダーバース』のことばかり考えていた。ああいうアニメが作られて評価されている世界って良いなと素朴に思った。社会に対して誠実であるから良いとかって話ではなくて、単純に「分かりやすくて良い」と思う。もちろんプロットの複雑さという話ではない。

 

本作は、子供から大人になるという「成熟」が一つのテーマになっている。しかし、登場するどの大人たちも、あまりに平板で魅力に欠ける大人としてしか描けていないことが悲しい。トウジもケンスケも、地道にみんなのために生活や生命を支える仕事に従事する良き市民であり、確かにそれは大人であることの一面であるだろう。この作品は「仕事を黙々とこなす」以外に大人であることを表現する術を持っていないような印象を受ける。

 

この世界の片隅に』の主人公や『崖の上のポニョ』の主人公の母親などは、全くえらそうなことは言っていないが、実に大人であるなぁと感じた。その事務的な感じ、他人への配慮、わがままさ、選択肢への距離感、子供への態度。もちろん、『シン・エヴァ』に出てくる大人たちもエラソーなことを言ったりしないという点において、辛うじて節度ある表現はできていたと思う反面、庵野秀明にとって大人とはどういうことなのだろうと疑問に思わざるを得ない。彼にとってまともな大人とは「黙々と与えられた仕事をする人間」の意味ぐらいしか持っていないのかもしれない。

 

よく言われることではあるが、日本のアニメ(という乱暴な括りが許されるなら)はとにかく大人が描けていないと感じる。結局それは、子供も描けていないのではないか?という疑問にも繋がるのだが、まあ、そこは置いておこう。しかし成熟をテーマにするならば、もう少し多面的でまともな大人を描けてても良いのではないか?ということを思ってしまう。これは『シン・ゴジラ』や細田監督の映画にも言えることかもしれない。

 

私はもう少し子供っぽくない物語を見たい。しかし、それは別に日本のアニメに期待すべきことでもないのだろう。

ところで、2時間半、全然退屈することなく楽しく見れたことは、本当に良かった。さすがだと思う。

 

『バック トゥ ザ フューチャー』を観た

1985年。ロバート・ゼメキス監督。公開から35年後にして、ようやく親子で見た。なんだかとても素晴らしい時間だった。2年前に一人で見た時には「子供の頃に楽しく観た時に比べると、あんまり面白くないな」と思った。しかし改めて娘と妻と一緒に見た『バック トゥ ザ フューチャー』は本当に幸せな時間だった。親子で鑑賞すること、それだけでデロリアンがそこにあるという感じがする。ベタだけど、ベタ。だが、それでいいという気分になった。