映画と映像とテクストと

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『サイバーパンク : エッジランナーズ』を観た

2022年。今石洋之監督。Netflixアニメシリーズ。(アニメーションではなく)アニメという言葉はNetflixによって更に世界に普及することになったんだろうか。最終話の「Netflixアニメシリーズ」というテキストが出てくる時に、今更ながらそんなことを考えていた。

『プロメア』が大変に気に入らなかったので、ほとんど期待しないで見たが、とても良かった。全10話の作品だが、ラストは本当に素晴らしかった。いわゆる「(ほぼ)全員死亡エンド」というオチの付け方だったわけだが、その在り方が実にゲームの世界観ともマッチしていた。『サイバーパンク2077』というゲームのテーマの一つは「功利主義の極北における倫理とは何か?」ということであると思っている。SF作品に疎い私は、他のSF作品でこのテーマがどのように描かれているのか分からないのだが、アニメ『エッジランナーズ』は、そうした(ゲーム本編にも通じる)倫理の問題を描いており、加えて、その葛藤はとても身近な問題としても捉えられた。

資本主義が進み過ぎた世界では、あまりに損得勘定で物事が推移していくわけだが、一方で、仲間との信頼や仕事上の流儀や恋愛を経由する愛情関係など、一見すると損得勘定とは異なる力学(これを仮に「倫理」と括弧付きでここでは呼ぼう)がちゃんとこの世界にもあることが分かる。びっくりするくらい呆気なく人が死んでいく世界だと、そうした「倫理」がむしろ逆に顕わになる。というのも、あまりに身近な生死によって、「どう生きるべきか、どう死ぬべきか」のような金とは少しズレる価値観、つまり「倫理」的なものが強く頻繁に喚起されざるを得ないからだ。平和な日常よりも遥かに「損得で縛られない価値」がプライスレスに上昇してくる。そんなシビアすぎる「倫理」の成立は「狂っている社会」としか言いようがない。この、損得勘定、倫理、狂気の三者が綺麗にバランス良く成立している世界が正にナイトシティだろう。『エッジランナーズ』のラストはそう考えるとアレ以外に考えようがなかった。

ゲーム『サイバーパンク2077』はさまざまなエンディングがあるし、会話での台詞も色々な選択肢があるため、一概にアニメと共通するテーマや思想みたいなものを抽出することは難しい。しかし、ゲーム『サイバーパンク2077』はアラサカという巨大な力に反抗する物語であるという幹の部分はアニメと同じだ。しかしそうした物語以上にナイトシティという街、そしてその社会構造の非人道的な側面が、アニメにも通じる要素として重要であると思う。第一話の母親の死は、全部見終わった後に思い返してみても、つくづく淡白な表現だった。一度「命に別状はない」と医者から聞いた後からの、サクッとした母の死。第一話のフックになりそうなところなのに、あの淡白な流れは、初見の時は、勿体無いような気がした。しかし、正にあれが、行きすぎた資本主義社会をのほほんと生きる人間のリアルなのだと思えるし、そこから「人間臭い」生き様が犯罪スレスレの生き方によってようやく回復できるというのは、物語のプロット以上にゲームとの共通点を感じさせる。

あと、本アニメ放映後、ゲームでの聖地巡礼が盛り上がった。『サイバーパンク2077』のプレイ人口が急上昇したのだ。

Steam版『サイバーパンク2077』プレイヤー数急増。最新アプデと“聖地巡礼”の相乗効果か - AUTOMATON

聖地巡礼は、アニメで出てきた場所に実際にゲームで行ってみるという遊びだ。わたしも思わずゲームを起動してナイトシティを再訪してしまった(クリアして以来、久しぶり)。メインたちが仕事の後に飲み会をしている場所を意図せず見つけてしまった時には、なんともセンチメンタルな気持ちになった。ゲーム原作のアニメとしては、来年(2023)に『ニーア・オートマタ』が予定されている。ゲームでの聖地巡礼ブーム来るかな?と思ったが、『ニーア』の場合は今回ほど聖地巡礼は盛り上がらないかもしれない。というのも、『ニーア』の場合、アニメとゲームの世界がかなり近そうだからだ。聖地巡礼というのは、アニメと現実世界など、大きく異なる世界の結節点に訪れるという遊びなのかもしれない。『エッジランナーズ』と『サイバーパンク2077』はそういう意味で、ちゃんと異なった世界ともなっており、だからこそ聖地巡礼する甲斐が生まれるのかもしれない。同じだけど異なる世界。『エッジランナーズ』は確実にナイトシティという街を、より複雑でより豊かでより重層的なイメージを喚起する世界に押し上げる要因になったと思う。

ところで、直前に『リコリス・リコイル』を見ていて、こういうアニメも良いよねと思っていたのだが、やはり『エッジランナーズ』を見てしまうと、「やっぱりこっちの方が良いじゃん」と思ってしまう。わたしは「分かりやすい」作品の方が好きなようだ。『リコリス・リコイル』のような特殊な文脈を把握できないと理解しづらい作品は、やはりつらい。まあ見ているだけで楽しいというのもあるが(オープニングが何度も見たくなる中毒性だというのもよく分かる)、それはそれで実は難易度が高い。日本のアニメーターは優れたストーリープロットと脚本が書ける人にもっと仕事をお願いするべきではないかと、つくづく思ってしまう。もっと「楽に」見れるアニメであるために。良いプロットと脚本は(そのジャンルの)シロウトのためにあるのだから。

ちなみに、海外でのTwitterの本作への反応を見ていると、レベッカの人気が結構高そうに思う。あれだけのロリキャラは、昨今海外で作ることは難しいのだろうと思ってしまう(が、海外のアニメ事情に詳しくないので、勝手な想像ではある)。ギリギリなセクシーさとロリさを両立、というか、これで許されるのは、これが世界の田舎(遅れて、教養のない人たちが住むところ)の日本で作られた作品だから、なのかもしれない。そう思うとやはり世界には田舎が必要ではないか?とわたしなどは図々しく、やや誇らしげに思ってしまう。