映画と映像とテクストと

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『さかなのこ』を観た

2022年。沖田修一監督。良かった。とても感動したし、変なものを変なものとして描いている点が素朴に良かった。のん演じるさかなクン(劇中ではミーボー)が言う「普通ってなに?」という言葉は、とてもありがちな言葉で、少し変なものを肯定するときに、たびたび使われる言葉だ。だからこそ、やや空虚であるし、白々しさも感じてしまう言葉なのだが、少なくともこの映画ではこの言葉を高い納得度と共に表現することができていた。これはとても凄いことだと思う。普通でないものがこの世にあるということを、「許す」のでもなく、「承認」するのでもなく、「受け入れる」のでもない、と同時にそのすべてであるような、ただ「普通でないものがいる」という世界をそのままに理解すること、のんの「普通ってなに?」はそういうレベルでの言葉になっていたと思う。すごい。

本作はとてもコミカルであるし、アニメのような誇張された人物造形もあって、シリアスで風格の伴う物語ではない。「最高の傑作!」というのも言葉がすぎるだろう。しかし、それでも精度の高い言葉が選ばれた脚本と、さかなクンという存在の稀有だけど、実は多くの日本人が身近な人の中にプチさかなクンを「知っている」と認知していることによって、本作は実に頭の中に染み入るように理解できてしまう作品となっている。こうした作品が作られたことは、日本のエンタメも中々なもんだぞという少し誇らしい気分にさせてくれる。わたしたちは、多かれ少なかれ、隣人と自分に潜む「プチさかなクン」と生きているし、それに納得している。原作およびこの映画への感想としても、「あの母親の受け入れる姿がえらい」という感想が上がるだろうし、それも理解できるが、あの母親はエライとかそういうものではないとも思う。実は多くの人が、すでにあの母親と同じ気持ちを少しずつは持っていること、そのこと自体に驚くべきなのだろう。だからそれは殊更に讃えられるようなものではなく、少し油断したら、すぐその隣には、ああいう変な人間を許容できない社会が横たわっていることに警戒した方が良いかもしれない。問題は、そうしたさかなクンを許容しない社会が決して「完全に間違っている」とは多くの人にとって言えない面があるということだろう。しかしそれでもその多くの人はさかなクンを許容する社会も同時に願っている。そこに希望がある。

さかなクンは、ときに肝心なことを言わない。言葉にしない。ただ、ニコニコしてうなづいている。それは彼がその状況に適切な言葉を持っていないだけなのかもしれないが、彼はその「沈黙」によって社会と折り合いを付けている。事実的にそうなっている。彼が言葉にしないことによって、彼を許容しない社会との折り合いを付けている。それは、彼を許容しない社会を、滅ぼそうとしないだけでなく、さかなクンに沈黙してもらうことによって、逆にその不寛容な社会は、さかなクンからの「許し」を得ていたりもするのだろう。時にさかなクン尊い存在に思えるのは、そんな「許されている」という気持ちが多くの人にあるからではないだろうか。