映画と映像とテクストと

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『グラートベック人質事件 : メディアが越えた一線』を観た

2022年。フォルカー・ハイゼ監督。見る前の印象と見た後の印象が、結構違う作品だった。「メディアが越えた一線」という副題を見ると「マスコミの報道の仕方が酷くて、それを告発するドキュメンタリーなんだろうな」と想像してしまう。しかし、実際見てみると、マスコミの酷さは、決して分かり易いものではなく、多くの人の反マスコミへの気持ちをスッキリと消化させるような酷さの描き方ではない。ギリギリ「これもジャーナリズムの範囲かもしれんなー、でもどうなんこれ?」と思えるようなもので、とはいえ、ちゃんと胸糞悪くなるような絶妙な酷さでもあるのだ。この辺りが、本作の独特な面であるように思う。「正義を語る者の気持ち悪さ」というのは、社会批評でもネットでも度々語られら ると思うが、その気持ち悪さの「厄介さ」が、本作には描かれていると感じる。

また、マスコミの酷さが後景に引いていると思う別の理由の一つに、本作に描かれる警察の対応のマズさというものがある。警察に毅然とした態度や計画的な対応が、あまりに見えてこない。極めて行き当たりばったりに警察が動いているように見える。全てマスコミ報道された映像を使って作品を構成しているが故に、警察の内情が描かれにくいという事情もあるかもしれない。それにしても、警察が無能ではないか?と感じさせる。警察の対応のマズさが、マスコミによって引き起こされたかどうか、そこも明確に描くわけではないので(もちろん影響はあったのだろうが)、その辺りも、独特のスッキリしない感じを引き起こしており、ある意味、作品の持ち味となっていると思う。

ラストで、この事件以降、人質事件に対するマスコミ報道に規制が設けられた旨が語られるが、単にマスコミ報道のあり方だけでなく、問題の本質が本当はどこにあるかを様々に感じさせるというのは、ドキュメンタリーとして見事であるのかもしれない。

とはいえ、本作は、「報道すること」に本来的に潜んでいるかもしれない非情さや下品さを、明らかにしていると感じる。これはとても面白い視点で、「正しい報道」というものが成立する基盤の危うさというか、無理ゲー感を示している。私たちがマスコミに対して感じている嫌悪感というのは、決して実質的なマスコミ報道の被害によってだけ、引き起こされているのではない。そもそも他者の行動を周知させるという報道それ自体が持つ悪徳みたいなものを感知するからこそ、嫌悪しているのではないか?と感じる。そのあたり、本作は、表面的なマスコミ批判の作品ではないと思った。