映画と映像とテクストと

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『リバティ・バランスを撃った男』を観た

1962年。ジョン・フォード監督。大変面白かった。テーマも、暴力の蔓延る西部において、活字と法による秩序を求める人間のドラマという、実に好ましいテーマで熱い。

法律や制度によって裁けない悪があることによって、弁護士である主人公(ジェームズ・スチュアート)は「しかし暴力で事態を解決したくない」と悩むわけだが、結局暴力により物事は解決するし、出世までしてしまし、人望も得てしまう。しかも、暴力を本当の意味で担う人間(ジョン・ウェイン)は影に隠れながらも、最もカッコいい描かれ方をしている。彼らの暴力と理性のバランスに対する悩みはきっと真剣なのに違いないのだろうし、観客である僕らは歴史の高みから「この物語をこんな風に楽しんで良いんだろうか?」と傲慢かつ繊細に悩む。果たして、どちらが真剣だと言えるのだろう。この映画を見ると「でも結局、暴力で解決してるやん!」というツッコミをどこか封じられるような気持ちがする。

この物語がリアルなのは、この作品世界の中で、やや脚色された英雄物語を語ることを、正に主人公たちがしており、その構成自体が、リアル世界でアメリカの西部開拓史を脚色しつつ語るということと、オーバーラップするからだろう。加えて「俺は本当の英雄ではなかったんだよ」と告白するような内容であり、結局、暴力で解決したいのかしたくなかったのか、分からなくなるような構造になっているのもニクい。とはいえ、上院議員となった主人公に罪(結局、暴力に頼った罪)があるとするならば、正にこの映画を作ったジョン・フォード自身にもまた同じ罪がある。しかし、それを受け入れるという覚悟を物語内容とジョン・フォードの語りとの二重に感じるからこそ、なんとも強い説得力を感じてしまうし、また見ている観客も、少しだけ共犯になったような気持ちになる。

暴力を受け入れると言ってしまうと、暴力を好み、暴力によって権力を振るう者を想像するが、この映画は暴力を沈黙によって受け入れている。これは「受け入れる」と口にする者とは違うんだ、という美学があるのだろうと思う。口にするには、論理や理屈が必要になるが、本来的に受け入れるべきでない暴力を容認しなければならない時、この映画に描かれるような「かっこいい男たち」は沈黙するのだ。その沈黙をどう評価するか、が問われる。私は沈黙する男はめちゃくちゃカッコいいと思ってしまう。口数が多い人間だからこそ、憧れてしまうのかもしれない。