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『アパッチ砦』を観た

1948年。ジョン・フォード監督。素晴らしかった。ヘンリー・フォンダ演じるサーズディ中佐が、とにかく愛されにくいキャラであり、それゆえ、この物語がどう終着するのか不安なまま、ラストの30分に突入していく。インディアンを騙し、彼らを不当に殺すことも辞さない、そればかりか、仲間の騎兵隊を無謀で自殺行為とも言える作戦に導く。そんな傲慢で無能なサーズデイ中佐が、アメリカ開拓史の英雄として称賛される。歴史上のカスター将軍がモデルのキャラクターだが、イメージだけで言うと日本の乃木希典を思い出す感じがある。(乃木将軍に傲慢な印象はなく、寡黙な無能といった『坂の上の雲』のイメージだが)

このサーズデイの描かれ方が、不当な賛美であることを、ジョン・フォードだって、作中のヨーク大尉だって当然理解しているはずであり、サーズデイ中佐に敵対したヨーク大尉が、最後はサーズデイへの賛辞を承認するところが実に面白い。

蓮實重彦の『ジョン・フォード論』(2022,文藝春秋)を読んでしまったので、そこでの語りに引っ張られてしまうが、本作を単純な道徳観で評価しようとすると、本作が描いている「ある種の真理」を見逃してしまうようにも思う。(もちろん、ハスミンは「真理」などと言ってないことは付け加えておきたいが)

唐突だが、2020年以降、様々な『分断』が問題視された時代だったと思う。それが本当の問題なのか、それ以外に優先すべき問題があるのかは判断できないが、私自身は素朴にやはり分断は大きな問題だろうと思っている。この『アパッチ砦』という作品やその時代においても、同じような分断線があることを製作者たち意識していただろう。しかし本作はその分断をそのままには描かない。その分断を混淆させるようなことをやっている。そんな風に感じていたので、ヨーク大尉がサーズデイの無能さや傲慢さに腹を立てることと、本心からサーズデイを賛美することは、全く両立しうることであると思う。

ヨーク大尉が諦めつつ承認した価値観とインディアンをあまりに露骨に迫害した価値観とは、かなり共有する部分もありながら、その差異が『アパッチ砦』には描かれている。サーズデイ中佐に賛辞を送ることは、決して「古い時代の感覚だから」では済ませられない。ジョン・フォードの表現や語り方が「正解」だとは思わないが、サーズデイを醜くは描かなかったこと、むしろ精悍な印象さえ与える最期であったことに、私は希望を感じる。フォードが描いたのは正に「尊厳」であるだろう。もちろんこうした視点に対しては、あそこで無情に騙されて殺されていったインディアンの尊厳はどうなるのだ?という反論はもちろんできるのだが、その対立の前にこそ、死んでザマーミロと言われるような「クソ野郎の尊厳」ということを考えることには意義があると思う。人は、こうとしか生きられない瞬間があり、それは個々人の性格や信条やイデオロギーや能力だけの話ではなく、誰にとってもありうる人生のあり様だと思える。殉ずることの美しさというか、強烈さ、そしてそれが密接に尊厳というものと関わっていることを、賢しらにその危険性だけから語ろうとすると、なにかを見落としてしまうように思える。『アパッチ砦』は私にとってそんな映画だった。