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『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』を観た

2020年。外崎春雄監督。ブームに乗るのは実に楽しい。というわけで、早速見てきた、劇場版「鬼滅の刃」。TVアニメよりも豪勢になったかなと思うが、概ねTV版の延長として、とても楽しめた。面白かった。

鬼滅の刃」はとってもダサい作品で、あらゆることを言葉や捻りのない表現で説明してしまう。常に説明過多である。何か美しいものがあったとして、例えば炭治郎の心が美しい、と表現するのに「美しい」とそのままの言葉で表現してしまう。あからさまに「美しい」情景で無意識(無意識!)の美しさを表現してしまう。普通、こんなにもあからさまだと恥ずかしくなってしまうわけだが、それを堂々と、そして恥じらいなく表現するところが本当に面白い。

こうした「鬼滅の刃」のダサさを馬鹿にすることは簡単だと思うのだが、やはりこの「美しいものを『美しい』と言ってしまう」やり方というのは、現状、無視できないところがある。だからこそ「こういう鬼滅みたいな分かりやすさやダサさが最近は大切なんだよ」みたいな物言いには、軽薄さを感じるし、そうそう簡単に受け入れてたまるかという気持ちにもなる。確かにこれを良しとする時代感覚との適合は、クリエーターなら商売としては必要なのだろうが、素朴に気の毒に思ってしまう。炭治郎のキャラクターの表裏の無さというのも、そういったものとおそらく通底しているのだろう。*1

それより、この「鬼滅の刃」という作品が面白いのは、とても「ポリコレ」であるところだ。オタクには嫌われがちな「ポリコレ」がここでは受け入れられていることは、とても面白い現象だと思う。「ポリコレ」などという言葉自体がアンチポリコレ的なものだと思う人もいるかもしれないが、ポリコレはもはや常識となりつつある支配的なイデオロギーなのだと「鬼滅の刃」の人気っぷりを見ているとつくづく感じる。

 

鬼滅の刃」のどのような点をポリコレと感じたのか。上手く説明できないところもあるのだけど、思いつくところを列挙してみたい。

まずは炭治郎の顔の傷。おそらく少年漫画で顔の傷を持つ人物というのはいっぱいいると思うのだけど、こんなにも「カッコよさ」に貢献しない大きな傷を持つ人物は珍しいのではないだろうか。わりとキレイな顔立ちなのに、純粋に減点となりそうな傷のある主人公は新鮮に感じた。

ラッキースケベ的なものの無さも感じる。最近は批判される事も多いラッキースケベだが、(アニメしか見てないので原作では分からないが)「鬼滅の刃」では全然そういうシーンが無いという印象がある。善逸は少年漫画でありがちな女の尻を追っかける系キャラだけど、善逸の女の求め方って「奇妙」で、どこか性欲を感じない。これは男の人だと理解してもらいやすいかもしれない。これは今までの女好き男性キャラに感じていた性欲の刹那性みたいなものを感じないということだ。ラッキースケベがあまり無いように思えるのも、そうした少年漫画が描いてきた刹那の(その場だけの)快楽との距離を感じるということかもしれない。ただ、これをポリコレと言っていいかはよく分からないし、そうしたラッキースケベがない少年漫画は他にもいっぱいあるので、「鬼滅の刃」特有の話とするのは牽強付会かもしれない。

あと、これはもう感触というものでしかないが、「鬼滅の刃」はかなり意識的にポリコレ地雷を踏まないようにしているという印象がある。もちろんネット上には「鬼滅の刃」にもジェンダーバイアスを示すセリフがあるというツッコミはある。しかし、主人公レベルの主要キャラが「お?それはちょっとアウトじゃね?」と思うセリフを全然言わない*2。例えば、伊之助などは野蛮な生まれなのに、不自然なほどに地雷を踏まない。彼は人道的に大きく踏み外すことは言ったりやったりするのに、微妙にポリコレでアウトなことは不思議と言わない。これはやはり作り手の意識を感じさせる。

そして、本作『無限列車編』では、ダイレクトに「弱者は死んで当然」と語る敵が登場する。そしてそれを「嫌いだ」として議論の余地なく主人公側は否定する(煉獄さんのセリフ)。もちろん「鬼滅の刃」の「ポリコレ」は素朴なエリーティズム(強い者が弱い者を守るべき)によって根拠づけており、それをポリコレと呼んで良いのかはよく分からない。それをパターナリズムとして批判することも可能だろう。しかし、内面化されたポリコレの自然な表出として、「鬼滅の刃」は随所にその顔を見せる。そのあまりの自然さがすごい。そしてそれを多くの人がほとんど無意識に受け入れていることがすごい。一昔前の漫画を読むと、あれもこれもアウトそうだな、と普段ポリコレなんて意識しない人でも気付くように、みんななっているのではないかと思う。

細かい話になるが、個人的に面白かったのは、鬼に操られた人間の1人が炭治郎のことを「なんか存在がシャクに触る」と表現していたところだ。これはとてもアンチポリコレの実感を表現しているように思える。「その理屈の正しさとかは置いておいて、ポリコレ的なものの存在それ自体がシャクにさわる」という感じ。炭治郎はとにかく政治的に正しい存在である。あまりに正しすぎて、その正しさがほとんど奇人のレベルに到達している。彼の「公正さ」は一種の特殊能力のようにさえ描かれている。鬼の側に堕してしまった人間から見ると、それはとてもシャクに触る存在だろう。操られた人間のうちの1人だけが改心するが、その人間は炭治郎の「異常な」心の美しさを目撃した人間であった。炭治郎は「おかしな」人間である。その正しさ、美しさが異常なのだ。しかしできればそうありたい、ポリコレ的に正しい存在になりたいという憧れが実はあるのではないだろうか。ポリコレがなんらかの制約や縛りだと捉えられている反面、現代は既にポリコレを「憧れのモノ」にしているのかもしれない。手に入れようと思ってもなかなか完全には手に入らないが、否定しようと思っても否定できない正義。特殊なエリートだけが100%我がモノにできる行動様式。ポリコレはもはや欲望の対象になっているようなところがある。だからこそ憎まれもする。そしてその一部は内面化され、当たり前のことになっている。この辺りがポリコレへのモヤモヤになっているように思う。

『無限列車編』は後半、とにかく泣かせにかかってくる。現場の登場人物のほぼ全員が、そしてカラスでさえ泣いている。泣いていることを肯定しすぎである。その底抜けの素朴さはとても滑稽ではあるのだけど、どこか笑えないようなところがある。

 

*1:ダサいものはダサい。しかし、それで良いという気もする。しかし……。と、しかしの逆接がループする。とは言え、最後は「まあ、少年漫画だしな」に帰着する気もします。

*2:炭治郎の有名な「長男だったから我慢できた」みたいなセリフはポリコレアウトだろうという批判もあると思うが、あれはあからさまにギャグとして言っているものだと理解している。ポリコレアウトな発言は意識的なものも勿論あるが、それはかなり意思を持って主張される場合である。アウトな発言のほとんどが無意識でされていることが多いし、その無意識さにこそ問題がある、という辺りが2010年代以降は主戦場のように感じている。違うかもしれない