映画と映像とテクストと

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『タバコ・ロード』を観た

1941年。ジョン・フォード監督。びっくりした。なんかあまり気乗りがしないままに見始めたのたが、終盤ではなんだかとんでもないものを見させられた気分になった。

 

喜劇なんだけど、ほとんどマトモな人間が出てこない狂乱の映画であり、恐怖さえ覚える。息子のデュードの叫び声はホラー映画のよう。そしてこんなめちゃくちゃな映画なのに、貧しさの物悲しさには全く笑えないほどの重みがある。どのシーンの構図もバッチリ決まっているところも本当に面白くて、なんと形容していいのか分からない。

 

「貧しさの中にも明るさがあって」みたいな言われ方もする映画だが、どうもそんな風には自分には思えなかった。いや、バカすぎて笑えないとか、そういう理由だけではなくて、例えば、デュードやエリーメイは良いのだ。彼ら、若者は多分生きていける。やはり老人たちの生き様こそがキモで、彼らは自分の生き方を変えられない。その愚かさに頑なにこだわる。そして、映画はそれを否定と肯定の両方を同時に行うように描く。救貧農場に行った方が遥かにマトモな生活を送れることは分かりきっていて、それでも傾きかけた家と荒れ果てた農地に執着する人間は、愚かさを超え、綺麗でも気高くもないのだけど、得体の知れない、しかし、人としていかんともしがたい生のリアリズムを示しているように思う。すごい。

 

 

『拳銃王』を観た

1950年。ヘンリー・キング監督。西部一の早撃ちと名高いジミー・リンゴの物語。カイエンの酒場を舞台に入れ替わり立ち替わり、様々な人間がリンゴに会いにくる。その様が非常に面白い。ある者はリンゴに勝負を挑み、ある者は追放しようとし、ある者はかつての妻に会わせてくれようと気にかけてくれる。唯一、リンゴのことを認識しない男、小さな牧場で妻と幸せに暮らす男だけが、ジミーにとっても癒しのようになるのは面白い。ちょっとあのシーンでホッとするのは、ジミーだけではなく観客もだろう。

 

ラスト、追手の3人のうち2人だけが捕まる。で、結局、ジミーを撃つのはハントという追手とは別の若者。残りの追手の1人はどうなったんだろう?少し不思議に思った。

最後が呪いのビデオのように終わる一方で、英雄は死によってしか終われないという諦観もある。『シェーン』や『真昼の決闘』のように英雄はただ町を去るのではなく、死ぬしかなかった者として描くところは、足早なロマン主義とも感じるし、冷徹なリアリズムのようにも感じる。不思議な後味の作品だった。

『赤い河』を観た

1948年。ハワード・ホークス監督。素晴らしく面白かった。西部劇の要素が詰まった傑作。ラストの「え?なんなんそれ、なんなん!?」まで含めて、本当に面白かった。ベスト1西部劇に挙げるのはやや抵抗があるけれど、人にオススメしたい西部劇としてはナンバーワンかもしれない。

 

途中で主役交代が行われ、それが全く残念さがないのがすごい。もう納得の主役交代。こういう見事な主役交代が行われる映画ってあまり知らない。2時間14分の中で、しかも劇中の時間も何年も時が経っているわけではなく、数ヶ月の物語がキュッと見事に収まっている。前半はややスローペースで話が進むのだけど、後半は本当に流れるように話が進んでいく。

 

9000頭の牛。その迫力だけで、結構圧倒されてしまう。牛の暴走(スタンピード)のシーンは本当に凄い迫力で、全くちゃちな感じがしない。凄まじい撮影だ。

 

ラストの結末には脚本家(ボーデン・チェイス)は納得していなかったそうだが、それはそうだろう。しかしその型破りで節度も知性もあったものじゃない展開こそが、なんだか清々しくも見える。女が置いてけぼりになるのも面白い。モンゴメリ・クリフトが本当に魅力的でセクシー。ハワード・ホークスは凄い人だと思った。ホークス監督は、おそらく実際に会ったり、言葉を交わしたりしたら、いけすかないクソジジイのような気もするんだけど、やっぱりなんかある種のわかりみのようなものを持ってるんだろうなと思う。それはきっと不正義なものだろうが、魅力的でもあるのだろう。

 

『蜘蛛巣城』を観た

1957年。黒澤明監督。面白い。浅茅の怖さ。良い。三船が砦を上下に行ったり来たりするカット、本当にかっこいい。マクベスの翻案だということを意識したせいか、とても演劇的な映画だなあという印象を受けた。特に室内で1人の人間を頭から足まで中距離から全身で捉えるカットなどは、独特の面白さがある。とはいえ、屋外に出た時のロケシーンの方がやはり個人的にはワクワクするし、見応えがあるような気もしてしまう。

 

終盤、山田五十鈴が目に見えない手の血を洗い流すシーンは確かにすごい。あんな冷酷な人間さえ狂わせるというところが、いかにも人間を超えた物の怪の強大さと恐ろしさを感じさせる。狂うことによって、これまで物の怪さえ操りそうな浅茅(山田)が、初めて人間らしく見える。その落差にワクワクする。

 

そしてラストの三船が矢を射られるシーン。最後に三船が倒れるシーンでは誰も弓を構えているようには見えない。あの大量の矢を射る人間の姿があまり画面に映らない。大量に降る矢群それ自体が怪異のようで、あの矢を射ったのは、本当に下にいる兵たちだったのだろうかと少し思える。

 

人間ならざるものを描くというのは、黒澤映画では珍しい気がする。で、そう考えると、やはり人間ならざるものより、人間を描いたほうが黒澤は面白いんじゃないかなぁということも少し思った。いや、面白い映画だったとは思うんだけど。

 

『アパッチの怒り』を観た

1954年。ダグラス ・サーク監督。サーク監督の西部劇!ということでかなり楽しみにしていた作品だったが、やや肩透かしを喰らったような、素朴に面白い作品というわけではないかった。しかしこれは「サークの映画だ」という意識があるからかもしれないが、80分間、全然退屈しないで見れてしまったことも確かで、なんというかどのシーンも人を惹きつける力がある。サークらしい「見れてしまう」感を感じる映画だった。

 

チリカワ・アパッチ族の酋長を引き継いだターザが主人公で、演ずるのはロック・ハドソン。肌を褐色に塗り、ネイティブアメリカンとしては違和感バリバリで主役を張る。文化盗用批判は、日本人にはどうも馴染みがなくて「黒塗りくらいで、そんなうるさく怒ることないんじゃない?」なんて普段から思うような人でも、この作品を見ると日本人とネイティブアメリカンとの人種的な近さもあってか「文化盗用だ!って批判が存在することも理解できるなぁ」と多少は思えるのではないだろうか。

 

この映画、微妙に気持ちよくなるところをちゃんと避けているところがサークらしいなとも思える。平和なんてあり得ないし、争いは避けられないものというリアリズムを双方の立場から部外者的にひたすら描写するんだけど、最後はものすごく都合よく平和へと回収されていくところが、メロドラマ的でもあって、それがこういう政治的なテーマでも適用されていることが面白い。ぼぅっと見てると、最後になぜロック・ハドソンは白人たちの味方をしたのか、なんで砦から逃走したのか、よく分からない感じになる。普通に考えて、自ら「アパッチ族を裁くのはアパッチ族だ」を実行するために、ジェロニモを追いかけたのだと解釈すれば良いのだろう。いずれにしろ、ロック・ハドソンネイティブアメリカンになったり、軍服を着たりと、右往左往しているように見えるところが恋愛劇のシーソーのようでもある。そういう描写にアイデンティティの揺らぎを感じ、その上でそれをあけすけに言葉にしたりしないところも渋い。

 

中盤のバーバラ・ラッシュが水浴びするシーンで「お、お色気シーンきた」と思うんだけど、父親に折檻されていることを背中の傷跡で見せるという重要なプロットを伝えてくるところは本当に良いシーン。セクシーシーン来た!の気持ちを折る感じが素晴らしい。

 

と、つらつら考えるに、結構面白い作品だったのかもしれないなとも思ったり。なんにせよ80分という短さはすごいし、とても良かった。

 

『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』を観た

2014年。ジェームズ・ガン監督。最初にこの映画を劇場で見たときにとても意外だった。ものすごく楽しめたからだ。この手の色々なキャラクターが集まって、ドタバタコメディーのノリで、世界を救うというタイプの物語は自分は好きではないと思っていたから、こんなに楽しくて面白くて少し幸せな気分にさせられるとは思ってもみなかった。1980年代のヒット曲という分かりやすさも相まって、今では本当に好きな映画になった。年に2回くらいは見ているような気がする。

 

ジェームズ・ガン監督の手腕の確かさは『Vol.2』の面白さからも分かるわけだが、同監督の『スーパー』を見ると、ここに至る流れのようなものを感じる。ガン監督は、現在進行系のノリを本当によく分かっている。少し露悪的で、少しふざけていて、少し真面目で、少し熱くて、少し非政治的で、少し権威主義的で、少し軽い。あらゆる方向性に全て少しのためらいを持っている。ひどく内省的なのに、はっちゃけたいとも思っている。そういうノリの雰囲気を本当によく理解している。ポストモダン的と言えば、そうなのかもしれないが、それを批判的に捉えたいとは思わない。

 

最後のクイルのダンスからの、インフィニティストーンを掴んでロランを倒すまでの流れ。この奇跡的な見事さ。ただ4人が手を繋ぐという、そのあまりにダサい絵面がなんとカッコいいことか。アレをラストの盛り上がりに仕立てることができる監督がそうそういるとは思えない。

 

『チャップリンの殺人狂時代』を観た

1947年。チャールズ・チャップリン監督。面白かった。今まで見たチャップリンの映画の中では、一番すんなりと見れたような気がする。今までチャップリンの映画にはどうしても苦手意識があったのだけど、本作はそういう感覚をあまり抱かなかった。

 

資本主義とか戦争とか、そういうものを批判する映画としてとても素朴に見えなくもないのだけど、やっぱりチャップリンは賢い人なんだろう、喜劇性や滑稽さというものが、本当に上手く効いている。殺人者であるヴェルドゥの妻子への接し方や、出所してきたばかりの女性に優しくする場面など、見る者をそれとなく不安にさせ、ヴェルドゥと我々とが地続きであることを伝えてくる。社会批判をする映画というよりも、我々が加害者であり、当事者であることを知らせようとしているようにも思った。そのいたたまれなさが、ラストの処刑場に向かう背中から感じられた。

とにかくチャップリンの映画は、どれもラストシーンが上手い。