映画と映像とテクストと

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『パラサイト 半地下の家族』を観た

2020年。ポン・ジュノ監督。素晴らしかった。面白かった。同監督の他作品では『グエムル』しか観ていなかったし、『グエムル』もそこまでおもろかった印象はなかったので、本作は期待以上に楽しかった。

 

展開の面白さとテンポの良さなど、作劇に対する評価はおそらくどんな人にとっても高いだろうと思われる。一方で「話は面白いけど、そこまでの作品でもないよね」という評価が結構あることは興味深い。たしかにそう言いたくなるところがある。素朴に言えば、エンタメに寄りすぎてるという感じだろうか。ただ、細かなドラマの部分としても面白味が随所にあった。例えば、ソン・ガンホがパク社長に「奥様を愛してるんですね」と何回も言うところが大変面白かった。インディアンの格好をして、雇い主である社長の息子のパーティーで余興をやらせられる。そんな状況で「社長も大変ですね。奥さんを愛してるんですね」と言われることの圧倒的な嫌さ。嫌味なのかどうかさえ分からない、そんな下層の人間が発する言葉から滲み出る図々しさは、正に格差社会のリアルという感じがした。『グエムル』の時も思ったが、ポン監督は貧乏人にそんなに簡単に同情とか哀れみを抱いていないと思うし、むしろ抱くことに懐疑さえ持っているように思う。表現者というのは、往々にしてそういうものだと思うが、ポン監督は特にそうした冷めた視線で社会の不条理を見つめている。だからこそ、その感情の読めなさが、突如としてブスリと社会の背中を刺しそうという、気味の悪さにも感じられる。そういう意味で、似たようなテーマである『ジョーカー』や『万引き家族』よりも作品の底にある意地悪さが感じ取られて好きな作品だと思った。

『グエムル 〜漢江の怪物〜』を観た。

2006年。ポン・ジュノ監督。比較的淡々と物語が進み、そこまで面白い映画ではなかったけれど、時折ハッとするような美しい絵が出てきてドキッとする。特にラストシーンは素晴らしかった。

 

物語の序盤から怪物の姿全体を画面に晒すところなどはJ.J.エイブラムスの『クローバーフィールド』を思い出した。怪物の姿を出し惜しみしないという姿勢が、人間と怪物の立場をフラット化する。かと言って怪物が人間と繋がるなんてことは一切なくて、本当に迷惑で面倒な害獣に過ぎない。この全くコミニュケーションを取れない怪物と人間を同じ地平で描くことに不思議と共感してしまうところがある。怪物が象徴するであろう多くの社会問題は当然ながら全て当事者の問題であるのに、それらの過酷さが自然災害のようにどうしようもないものとして重くのしかかる。当事者なのに、どこか冷めて事態を見てしまうような、そうした感情を失ったような眼差しを本作からは感じた。

 

家族の物語として考えると、主役のカンドゥがとても視聴者の共感を得るところから遠いキャラクターであることが面白かった。怠け者で間抜けで特に何の能力もない。弟や妹に比べても無能な存在。そしてその事を親もよく分かっている。兄妹たちに「あまりカンドゥを馬鹿にするな」と諭す場面が素晴らしい。無能な存在が怪物をやっつけるというストーリーラインはとても素朴で単純なようにも思えるけれど、実際に鑑賞するとそういう清々しさとは違う、どこか濁ったような感情にもさせられる。無能な人間が不必要な人間として扱われて良いのか?という問題意識を感じる。それは社会批判や風刺という側面は確かにあるとしても、決して高度にインテリジェンスに問題に立ち向かうというよりは、そうしたものへの「気分」をものすごく的確に表現しているように思われる。もう少し、自分が韓国社会に明るければ、また違った感想を抱きそうな気がする。

『キング・コング』を観た。

1933年。メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザック監督。2005年の『キング・コング』を見たこともあり、ぜひ1933年版を見たいと思っていたら、たまたまケーブルでやっていて見てしまった。実に面白かった。たった100分でエンパイアステートビルまで展開する、その流れの良さには感心した。アンが原住民に攫われることに船員達が気付くところとか、ドリスコルが囚われたアンの元にたどり着く流れなどは、2005年版よりも1933年版の方が自然ではなかったかと思ったほど。

 

2005年版と同じなんだと思ったのは、ティラノサウルスの口を開いて殺すところ。死んだティラノサウルスの口をパカパカする部分までオリジナルの1933年版にあることを知って、ちょっと興奮した。あとやはりというか「世界第8の不思議!」の箇所は同じなんだなと思った。オリジナルを見て映画産業を志したというピーター・ジャクソンは本当にオリジナルを今の時代に蘇りさせたかったのだとあらためて思った。

 

違うところとしては、オリジナルでは原住民が原住民の若い女性をキングコングの生贄にしようとしていたのに、金髪白人のアンを見てアンを代わりの生贄にしようとするところ。確かに問題のある表現で、2005年版ではバッサリなくなっていた。また、ラスト付近で扉を破ろうとするキングコングに対抗する為、原住民と白人の船員達が協力する展開も2005年版ではなくなっていた。なんとなく分かる気もする。

 

とにかく、2005年版と1933年のオリジナル版はセットで見るとすごく色々な視点で映画を鑑賞できるので、その点はすごく楽しかった。

 

『フレンチコネクション2』を観た

1975年。ジョン・フランケンハイマー監督。ドイル刑事の前作の破天荒ぶりが、続編になって弱まったりしているのでは?などという邪推を真正面から覆してくる作品だった。というかさすがにやりすぎではないだろうか。いや、笑ってしまうくらいにめちゃくちゃである。フランスという外国に来て、フランス人潜入官は殺しちゃうし、ホテルはガソリン撒いて燃やすし、独断でシャルニエは撃ち殺すしで、ニューヨーク以上にやりたい放題で参った。唯一、ドイルがヘロイン漬けにされたことをアンリがカルテを残さないように揉み消すシーンがあったが、そんなのは放っておいても問題ないくらいに小さい話のように思える。ウケる。

 

前半は、フランス観光のようなゆったりとした進行ながら、後半になると見所を凝縮したような急展開が続く。やはり前作の方が面白かったと思うが、続編としては結構良くできていると思った。いや、見応えのある絵も多いし、ストーリーのめちゃくちゃぶりはちょっとどうかと思ったが、街にジーン・ハックマンが歩いているだけで見ていて楽しくなってしまう映画だった。自分にとって、フレンチコネクションは街の映画だという印象が強くある。あんなどうしようもない男でも静かに街は抱えてしまう。街というのは懐が深い。

 

 

『墓石と決闘』を観た

1967年。ジョン・スタージェス監督。『OK牧場の決闘』よりもずっと面白かった。ワイアットによる復讐で、どんどんと賞金対象が殺されていき、逮捕できないので、賞金も貰えないという状況になっていくのが、とてもおかしい。協力する奴らみんなが、その事でワイアットをなじったりしないのが面白い。最後の最後で、ドク・ホリデイに「復讐だった」と告げるワイアット。「そんなことみんな知ってるっ」とツッコミたくなるこの焦らし方が、実にいい。殺したい奴を殺していくことの願望と躊躇が一体となった物語展開が素晴らしい作品だった。

『OK牧場の決闘』を観た

1957年。ジョン・スタージェス監督。つまらなくはない映画だと思うんだけど、なんかあんまり面白くないというか、今ひとつどいつもカッコよくない印象で、どこか散漫としたイメージの映画。

 

唯一、ドク・ホリデイが、ちょっと味のあるキャラクターのようにも思えるんだけど、まあ、それでも結構素直というか、分かりやすいキャラクターでもある。また、ワイアット・アープというキャラクターをどのように描きたいのかが、分からなかった。超然とした英雄でもないが、人間味が溢れる悩める保安官というほどでもない。まあまあ共感できる良きリーダー、という印象ではあるんだけど、例えば最初に強引にローラを留置場に入れるところなど、なんかその後のロマンスのためだけにしてるという印象で、その行為からミステリアスさとか男らしい魅力なんてのも特に感じない。総じて、喧嘩している時以外のシーンが自分には退屈に思えてしまった映画だった。

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を観た

2019年。片渕須直監督。素晴らしい作品だとは思うんだけど、前作の方が良かったなぁと思ってしまった。前作観賞後に原作を読んだときは、随分と思い切って重要エピソードを削ったなと思ったけど、本作(さらにいくつもの)を見たあとだと、余計に前作の翻案は本当に素晴らしかったと思う。

 

遊郭のリンさんの秘密を知る時も、また夫の周作にも知られるところになるのも、なんだかあっさりというか、いや原作でもあっさりしてたんだけど、もう少しこう、情動の揺れ動きを感じたような気がするんだけど、どうも完全版である本映画では、すずさんを「トボけてて強い人」みたいな人物により描いているように思える。セックスを拒むシーンにすべてが負わせすぎではないだろうか。うん、上手く言えないけど、なんか本作には上手く気持ちが乗れなかった。何回か見たら、また印象は違うのかもしれないが。なんか長かったなと思った。ふむ。