映画と映像とテクストと

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『ヘレディタリー / 継承』を観た

2018年。アリ・アスター監督。あのガブリエル・バーンが、もう老年期に差し掛かる男を演じていることに最初、衝撃を受けてしまった。なんだか切なくなる。

 

前半部分の事故のシーンがとても良かったが、後半は比較的普通の悪魔ムービーという感じがして、ちょっと気持ちが落ち着いてしまった。建物内を映す時の構図など、結構かっこよくて、少しおしゃれ感のあるホラームービー。胸糞展開を盛り込むなど、部分部分の要素はありがちと言えばありがちながら、トータルとして綺麗に織り交ぜられているなと思った。

 

ただ、この映画が見ている者の心をざわつかせることだけに腐心しているように思えてしまったところはある。なぜ祖母は解離性同一障害である必要があったのか(それを病名として言うことに何の意味があるのか)。娘や息子のビジュアルがなぜあのような一種の醜さを持っている者として描かれたのか。それはちょっと分かりやすすぎるあざとさに思える。独特のビジュアルセンスはあるものの、どこか薄っぺらく感じた。

『母なる証明』を観た

2009年。ポン・ジュノ監督。いやぁ、これも面白いな。ポン・ジュノ作品は、人の行動の複雑さではなく、その単純さや底の浅さを意地が悪いくらいに炙りだすような手つきで描く。それは同情とかを許さない、言い訳の入る余地がないほどのあけすけな人間らしさでもあり、人間らしくなさでもある。

 

本作も「母」の話ではあるのだけど、多くの人がイメージする「母なるもの」からとにかく離れたイメージやモチーフが連続する。近親相姦、子殺しなどは正にそういうものにも思えるけど、そこにも「母なるもの」への正反対の価値があるという、そんな単純なものではない。そうしたイメージの反対側にさえ「母なるもの」がいないような、どこにも「母なるもの」がいないという徹底した脱「母」的なイメージが作品全体を覆っている。そんな凄く批評的なものを感じさせるとはいえ、母が母らしく振る舞おうとすればするほどに、「母」から遠ざかっていき、最後は踊り狂うしかなくなるという分かりやすいイメージとしても描かれる。このシンプルさも面白かった。

 

『フォードvsフェラーリ』を観た

2020年。ジェームズ・マンゴールド監督。とても面白かった。ある種の古臭さがとても気持ちの良い映画だ。ケンの妻の存在などは、その典型的な要素だろう。フォードとフェラーリの戦いは、何を象徴しているのか?というのは、この映画を批評する上での最もプリミティブな問いになるだろう。個人的には、その戦いの先に何もないという虚しさこそが、この映画を支配するもののように思えた。車で速く走れたからと言って、一体それがなんだというのか。その無意味さこそが、実はヘンリー・フォード2世エンツォ・フェラーリの戦いにも共通するのかもしれない。

 

息子の存在とか、アイアコッカの存在が、なんだか浮いているような気もするが、そういう若干歪な細部も含めて、とても愛せる映画だったように思える。そしてその古臭さも含めて確かに2020年の映画だと言えるのではないだろうか。同監督の『ローガン』にはあまり感心しなかったが、本作はとても良いと思った。

『シン・ゴジラ』を観た

2016年。庵野秀明総監督。見れば見るほど、大したことない映画だなぁと思うんだけど、それでもやっぱり楽しく観てしまう。この映画は、2011年3月11日の最も心地いいドキュメンタリーを見るような楽しさがある。

 

庵野秀明はとにかくエンタメ体質の人であり、まともな大人であるからして、その自らのエンタメ体質を恥ずかしがるがゆえに、あえてわがまま風の気取ったような演出をしてしまうのでないかと思う。カヨコの存在もまた、そういう「あえて」をやらないと尻がむず痒くなるのだろうと思う。

『殺人の追憶』を観た

2003年。ポン・ジュノ監督。とにかくいちいち面白い。話が巧みに展開するのでも、見事なセリフがあるわけでもないんだけど、とにかく魅せる。映画としての品質が高くて飽きない時間を過ごせる。

 

ポン・ジュノ監督は、なぜこんなにも魅力的な画を撮ることができるんだろう。彼のスローモーション演出などは、本当に見事で、それもこれも画の力強さが高いから様になってしまう感がある。殺人の持つ官能性も、世情の不安さも、警察の横暴さも、全てが繋がっていることを監督自身は知っているのに、はっきりそうとは言ってくれない。この焦らしこそポン監督の魅力であるように思う。良い悪いを超える、などと言ってしまうととても凡庸なんだが、監督はその超える何かを映画というもの自体に仮託しているように思える。

『ほえる犬は噛まない』を観た

2000年。ポン・ジュノ監督。ポン・ジュノ監督はとても分かりやすい映画を撮るけれど、とてもインテリなんだろうな、分かってやってんだろうなということを常に感じさせる。本作は、そういう意味で、とてもポン監督のインテリっぽさが分かりやすく出ている映画ではないかと思う。

 

ポン・ジュノ監督には、独特の不連続性を感じる。気持ちよく走っていると、不意に急ブレーキを踏むような、つんのめるような気持ちを与えてくる。悪事を描いても、その悪事に対する憎しみとかそういうものはあまり感じない。その出来事に対して、ぼっ〜と傍で見つめ続けるような、そういう他人事感が素晴らしい。だからこそ平気で急ブレーキを踏んでくる。それは一種の照れなのか、なんなのか。すごくステキな態度だと思う。

『巴里の屋根の下』を観た。

1930年。ルネ・クレール監督。ああ、映像が切ないというのは、こういうことを言うんだなと思った。歌声が消えていくラストシーン、煙突の見える様々な家の屋根と空。人間のいたたまれないほどの小ささと、その掛け替えのなさ。1930年というトーキーとサイレントの狭間の作品。

 

話の展開の細かいところなどは、大雑把な印象も受けるのだけど、演者のコミカルな演技であまり気にならない。人情喜劇という趣きの豊かさを感じる。床に落ちたパンや花、通りから扉を通して見えるバーの店内、俯瞰で撮る狭い路地、縦に連なるアパートの窓。どれもこれも撮っていることの意図が明確に感じられて、見ていてとても気持ちがいい。人生が変わる人と変わらない人との境界が、切なく優しく切り取られる。面白かった。