映画と映像とテクストと

映画や読んだ本などの感想を書きます。ビデオゲームについてはこちら→http://turqu-videogame.hatenablog.com/

『ブラックパンサー』を観た

2018年。ライアン・カイル・クーグラー監督。テレビ放映の吹替での鑑賞。うーん、面白くなかった。というか、何が描きたいのか分からなかった。自分が黒人文化というものへの理解が低すぎるからかもしれない。最近見たつまらなかったアメコミ映画というと『ドクター・ストレンジ』なのだが、それよりも面白さが分からなかった。『ドクター・ストレンジ』はまだ何をしたいのか分かるところがあった。

 

吹き替えの主人公の妹ちゃんがえらくかわいらしい声で、なんだかそれにも違和感があった。いや、可愛いらしいキャラなんだと思うんだけど……。なんか魅力的な素材はいっぱい用意されているのに、どれもその本領を発揮できるような面白さになっていないような感覚があった。

 

 

『アウトレイジ 最終章』を観た

2017年。北野武監督。あまり良い評判を聞かなかった3作目。確かに前2作に比べると、ちょっと展開が強引で、武演じる大友の無鉄砲さがある意味最もコミカルだったと言えるかもしれない。

 

しかし、それでも自分は面白い作品だったと思う。大友と彼が身を寄せる韓国系マフィアとの間には、微かな友情というか仁義というものが感じられる。しかし、大友自身はそうした仁義とか義理というものを大して信じていないように思える。しかしそんな大友がシリーズを通して一番ヤクザ的仁義を体現する。そうした矛盾を、3作目である最終章まで一貫して描き切ったことは凄い。ヤクザのカッコ悪さと両立するカッコ良さというものがあるとすると、その矛盾に根があると北野武が直感しているように思う。

『影の軍隊』を観た

1969年。ジャン=ピエール・メルヴィル監督。レジスタンスを描く映画であり、その生き様や振る舞いの冷酷さが光る作品。そしてその過酷な生き様を強いたナチスや戦争というものの悲惨さが、画面の奥の方から響いてくる。作品の面白さはさることながら、リノ・ヴァンチュラ演じる主人公のキャラクターの魅力も素晴らしい。

 

なんでもないシーンが本当に面白い。レジスタンスという正体を隠しながら、街を歩くことの緊張感が、ビリビリと感じられる。言葉の少なさ、その寡黙さが臨場感となって伝わる。裏切り者を絞殺する時の緊迫感と、そんな非日常が日常との地続きであることが、同時に分かってしまう。平和な時代と大きく異なる行為や思想が満ちているのに、見た目には決して異常ではなく、平時の振る舞いと一見すると違いがないかのような、そういう異常さ。それを異常だとなぜ伝えることができるのかが不思議だ。映画のマジックというものを見せられているという気持ちになる。素晴らしい傑作だった。

 

 

『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』を観た

1984年。押井守監督。最初見たときは、前半の「永遠に続く学園祭前日」というモチーフが魅力的すぎて、後半の夢邪鬼との戦いとかあまり印象に残っていなかった。しかし今回は落ち着いてその後半部分を改めて楽しむことができた。

 

ラムちゃん諸星あたるにとってどのような存在なのかを語るところが興味深い。わがままで、無鉄砲で、自分勝手で、そういうバラバラなものが何か一つのことを為すということの魅力というのは、正直言うと、よく分かっていない。斉一で、整然として、翼賛的なものの美しさの方がずっと分かりやすい。そんな自分にも、こうしてバラバラなものたちの学園祭はとても魅力的に見えた。深夜タクシーに乗って、夜の街灯が窓に映る、その寂しさがバラバラなものたちの心を静かに癒す。

 

起こってしまっているトラブルの深刻さに比べて、無邪鬼の関西弁と振る舞いは不釣り合いに軽い。その軽さが、その無邪鬼を退治する諸星たちの軽さと不思議とマッチして、むしろそうした軽さを持つ者でなければ、この事態を克服できないだろうという、奇妙な納得感として腹に落ちてくる。凄いバランスの作品だなぁと改めて思った。面白い作品だと思う。

 

『カプリコン・1』を観た

1977年。ピーター・ハイアムズ監督。リアリティに難があったり、ご都合主義的な展開があったりと、様々な難点はあるものの、楽しく2時間が過ごせてしまう。結局、黒幕というのは一体誰だったのか、あまりよく分からない脚本なのだけど、出てくる政治家たちのイヤらしさや、プロジェクトの責任者である博士の物言いが、とてもよくできていて、そこに見応えがあり、なんだか納得してしまう。政治サスペンスとしても、どこか二流感の漂う出来ながら、これだけ面白いのは本当に不思議。

 

どう考えても無理のある説明や理屈を、時に社会の大人たちは捻り出さなければならない状況に陥ったりするわけだけど、そういう無理のあるプロジェクトを押し付けられた責任者の博士に感情移入して見ると、とても味わい深い映画になる。

『笑の大学(舞台版)』を観た

1998年(パルコ再演)。三谷幸喜作。何度見ても楽しくて、笑って、泣きそうになる。三谷節の詰め合わせ。一つ一つのギャグがそこまで面白いわけではなくて、そのセリフが発せられる状況と当事者意識を共有するが故に、笑いが滲み出てしまうという感じがする。映画の方は怖くて見ていないんだけど、結構面白いとの話も聞く。いつか見てみようかな。

『栄光のル・マン』を観た

1971年。リー・H・カツィン監督。『フォードVSフェラーリ』が大変気に入ったので、参考作品としてこの作品を見た。同じルマンを舞台にしているが、今作はポルシェ対フェラーリ。主人公のスティーブ・マックィーンはガルフカラーのポルシェ917に乗る。ルマン式スタートが廃止された1970年を舞台にしているので、『フォードVSフェラーリ』よりも後の時代ということになる(とは言え、数年違いの1966年)。

 

映画の大半を占めるのはレースシーン。Blu-rayに収録されている特典映像メイキングでも言われていたが、ほとんどドラマらしいドラマがない。セリフもほとんどない。ストイックにも見えるその尖った作りは、今見ると逆にアーティスティックな作品であるように思える。ドラマとしては淡白ながら、ただ車が走るということの面白さは十分に伝わってくる。『フォードVSフェラーリ』よりも車の走るシーンには魅力があるように思えた。

 

この作品の女性の描き方を見ると、『フォードVSフェラーリ』は今の映画だなと感じる。『栄光のル・マン』に出てくる女性は、男のロマンを理解しないで、静かに耐え忍ぶ存在だ。その女性の無理解さが逆に男のこだわりを(かっこよく)際立たせる。しかし『フォードVSフェラーリ』に出てくるレーサーの妻は決してレースに無理解ではないし、むしろレーサーである夫よりもレースを続けることを促そうとさえする。夫に腹を立てるのも嘘をつくことに対してであり、命の危険を顧みないその生き様に対してではない。『フォードVSフェラーリ』を見たときは、その女性の描き方が随分と「男に都合のいい存在」のように思えたが、『栄光のル・マン』を見た後だと見え方がかなり変わった。『フォードVSフェラーリ』の女性は、個人としての意思を持った、ステレオタイプな女性像からは距離を置いたキャラであったのだなぁと感じる。

 

『栄光のル・マン』は、エンタメとしてはかなり独りよがりな作品であるかもしれないが、その寡黙さがほとんど西部劇のような美しさであり、不思議な見応えがある作品だ。