映画と映像とテクストと

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Netflix『アグレッシブ烈子』を観た

2018年〜2020年。ラレコ監督。2020年にNetflixに配信されたシーズン3までを視聴した。とても素晴らしい作品だった。見る前まではOLのあるある系アニメだろうと思っていたが、いやたしかに実際そうなのだが、凡百のショートアニメに比べると遥かに練度と精度の高い素晴らしい脚本によって構成された巧みな作品だった。『タラレバ娘』とかを楽しむ感じで楽しめる「濃さ」を持っている(と、同時に『タラレバ娘』的な気軽さもある)。

 

大手町、田園都市線三軒茶屋など具体的な固有名詞が多少出てくるものの、そうした現実世界の物事を単にそれっぽく使ってリアリティを出しているわけではなくて、ありがちなエピソードに潜む細部の所作や言動に圧倒的な適切感があって、唸る。同僚のフェネ子の人の良さなど、気持ち良さも鋭さもあり、とにかく全編にわたり安心感がある。「分かってる者の犯行」だという感じが強く、素晴らしい。

 

シーズンごとに毎回大変なことにはなるのに、ちゃんと日常へと帰ってくる。上司とあんなにやりあってしまいどうするのか(シーズン1)、話題のIT社長との恋愛がどう収束するのか(シーズン2)、地下アイドルとして名が売れてしまってどう会社に戻るのか(シーズン3)。全て筋だけ聞いたら、やや強引に最後は話をまとめていると思えるのだが、その着地点にまで持っていく手練れが毎回素晴らしい。デスボイスという飛び道具にもちろん頼りつつも、それだけではない丁寧な手当てが毎回なされている。例えばシーズン3のラストのカラオケシーン。ハイ田のことを散々キモいと烈子に言わせて、その上でハイ田に烈子の手を握らせるという流れは素晴らしい。どうして納得できるのかは分からないが、なんだか納得してしまう。アイドルだって辞めなくて良いじゃん?とも思うわけだが、それを収めてしまう手際は本当に凄い。

 

日本のNetflixオリジナル作品には微妙な評判が立つことも多いが、本作は世界で戦える品質も持った良質ドラマとなっていると思う。

 

『ナイブズアウト〜名探偵と刃の館の秘密』を観た

2019年。ライアン・ジョンソン監督。スターウォーズ本編シリーズの中で唯一まともな映画を撮ったライアン・ジョンソン監督の作品ということで、見たいと思っていたが、なかなか見れなかった。ようやく見てみたが、とても楽しかった。

 

ミステリらしさが序盤に詰まっていて、しかもそれが凄いスピードで語られていく。自殺か他殺か不明な事件、一癖ありそうな名探偵、問題を抱えていそうな富豪の一家、カラクリ的な仕掛けのある邸宅、物言わぬ老婆、特殊な身体的性質、クラシカルなミステリ要素がふんだんに散りばめられて、それだけでかつてのミステリファンとしてはワクワクしてしまう。しかもそうした要素が矢継ぎ早に語られて、贅沢に次々と消費されていく展開は新鮮でもあり、決して凡庸な展開でもない。単に真相を焦らし続けるわけではなく、早々に主人公の行く末が気になるサスペンスとして盛り上がるところは実にキャッチーで楽しい。

 

現代の社会情勢を踏まえた点も面白く、正にトランプ的な排外的態度がサラッと皮肉られている。スマホ中毒でネトウヨになる子供は馬鹿にされていて、その親たる大人たちは移民である主人公に優しさを持っているように描かれているものの、ひとたびその親たちも当然だと思って享受している権利が侵害されると化けの皮が剥がれて、排外主義に転がり落ちる。その様子がとても分かりやすい。もちろんここで皮肉を言われ批判されているのは白人たちなわけだが、彼らが「自分の家」と思っているものを全く納得いかない形で奪われていく様子に、監督は全然同情や共感を抱いていないかというと、そうでもないような気がする。いやもちろん彼らに肩入れするつもりはないのだろうけど、彼ら白人たちの普通さや邪悪で無いこともまた、よくよく理解しているように思える。だからこその問題のややこしさなのであろう。

 

絶大な権力を持つ老人の「思いつき」によって主人公は力を得るわけで、それは別に社会的な公平さや正義によって彼女は救われているわけではない。そういう社会問題として「正しく」この物語が展開されていないところが、ある意味この作品の分かりやすさでもあるだろうし、誰でも(トランプ的反知性主義でも)この物語を受け入れることができる「良さ」になっている面はあるだろう。

 

本作は全てがサイコーな映画だというわけではないが、しかし手元で愛でたくなるような愛嬌があり、かわいげがある。好きな映画だなぁとしみじみと思った。

『ダンケルク』を観た。

2017年。クリストファー・ノーラン監督。『テネット』を見たことだし、前作を見たくなって、見た。ノーランは大して面白くない話を本当に面白そうに撮るなぁと思う。あまり知的ではないかもしれないが、印象的な画も多い。

 

戦争の一体何を描きたいのか、よく分からない。反戦というのとも違う。人間ドラマというにはどこか薄っぺらい。極限状態での人の有様というには妙に間が抜けている。もちろん戦争の英雄を華々しく描きたいわけでもない。ただ、なんというかこういう感覚で戦争を描いていることは、とても正直だと感じるし、何より現代の多くの人にも共有しやすい価値観なんだろうなと思う。ノーランの映画が世界的にヒットしていることを考えると、この感覚は決して日本人だけじゃなく、世界的にも何か通じるものがあるのだろう。

 

戦争という舞台を扱いながら、そこで描かれるサスペンスとして、コックピットのハッチが開かなくて水が下から迫ってくる、なんていう平凡なアクション映画的エピソードを大ごとのように据えたりしてくる、この感覚。冷めたような人の生き死にの描写をリアリズムと言って良いのか、正直よく分からない。でもなんと言うのだろう、この綺麗なパッケージに整然と整列して並べられたような感じが、凄く現代的だという感覚はある。かけがいの無い古典的な傑作である一冊の文庫本を町の小さな老舗の古本屋で手にとるようなロマンが、ノーランの映画にはない。同じ古典作品の電子書籍Amazonで買っても、別にそんな違いはないでしょ?という雰囲気をノーランには感じる。別にいいじゃん、むしろキレイで清潔じゃんってな感じ。

 

1週間と1日と1時間を圧縮して、並行的に見せるという本作の特徴的な構成も、果たしてどういう意味があったのか分からない。それによって臨場感が生まれたとも思わないし、通常の時間感覚を狂わすことで生まれるドラマがあったという印象もない(ラスト、砂浜で全ての時間が一致することに特にカタルシスもなかったような気もする)。もちろんその手法の魅力を理屈づけて批評することはいくらでもできるだろうが、なんだかそれも正直に言えば虚しい。ただ、1週間苦しむことも、1時間で捕虜になることも、それぞれの体験がそれぞれに良い悪いや重い軽いの違いもなく「ただある」んだよ、という感覚がある。これはやはりとても「正直」だなと思う。なんというか本当に正直。

 

ノーランはその作品が持つ正直さが、ある種の誠実さとして受け止められているのではないかなぁと思った。

 

『TENET(テネット)』を観た

2020年。クリストファー・ノーラン監督。ややこしい話。でも楽しかった。みんなが盛り上がっているのも、なんだか楽しい。コロナで映画館に行けなかったけど、こうしてイベント的に盛り上がるキッカケになっていることには、なんだか感慨深いものがある。

 

ノーランの映画は面白いと思うし、同時に、どーでも良いとも思う。プロットを奇抜にしつつも、ギリギリダサくしない(ダサい)上手さがとても見応えがある。それはオタクが憧れる何かであるわけで、その美学にはいつまでも頑張ってほしいなと思う。

 

最後、船から男を落とすところの、首がゴキュっとなっていかにも痛そうな、ああいう感じ。ああいうところが本当に見事だなあと思う。

『宮本武蔵 一乗寺の決斗』を観た

1964年。内田吐夢監督。吉岡一門との決着が描かれる4作目。前作で清十郎を倒して、次は弟の伝七郎に狙われる。三十三間堂での戦いはなかなかかっこいい。遊郭吉野太夫が全てを見透かすようなことを言うのも、なんだか面白い。すごいんだか滑稽なんだか、よく分からない。そのふんわりと宙に浮いて、気持ちや理解の落ち着き場所が覚束ない感じが面白い。いや、面白いのかどうかも覚束ない。

 

ラストの一乗寺の下り松での決闘。武蔵が最後は「来るなー、来るなー」と叫びながら逃走する。あれだけの大人数を相手に負けていないのに、子供は殺してしまうは、田んぼの中で泥だらけになりながら叫ぶわと、現代の一般的な(?)宮本武蔵像とは違う印象の武蔵が描かれる。有名な作品ながら、ちゃんと見てみると「こういう映画だったんだなあ」とつくづく思う。原作はどういう感じなんだろう。

 

このシリーズ、お通さんと子供の城太郎が出てくると、凄く冷める。そういう印象が強くある。

 

『宮本武蔵 二刀流開眼』を観た

1963年。内田吐夢監督。序盤から実に面白い。花を切り落としたその切断面を見て、石舟斎の力を武蔵が見抜くというワクワク展開で気持ちが昂る。

 

本作は吉岡清十郎にかなりフォーカスが当たっている点が面白い。名人の子供であり、京都一の道場の主人であり、門弟からは常に大切に扱われつつも、佐々木小次郎からはすぐに大したことがないと見抜かれる。女にも嫌われて、無理矢理手篭めにした女は自殺を図ろうという始末。悩めるエリートが当たり前のように武蔵に敗れ、そこで初めて観客を緊張させるような意地を見せる。負け役の面白み。

 

しかし3作目まで、シリーズを通してひたすら女への扱いが酷すぎるのが、面白い。武蔵も子供も素浪人も武士も、とにかく女を人間扱いしないという法でもあるのかと思うほどにひどくて、ウケる。

『宮本武蔵 般若坂の決斗』を観た

1962年。内田吐夢監督。蔵に篭った武蔵がいきなり真人間になったかと思ったら、3年間ひたすら待ち続けたお通を捨てて剣の道に生きると言う。なんだか、とんでもない女の振り方をする。しかしお通は健気に武蔵を追おうとする。すべてが狂っていて大変面白い。

 

今作で吉岡清十郎が出てくるが、その道場にやってくる武蔵はヒゲモジャなのに、場面が転換するといつものあの姿。なんで吉岡道場に行った時はあんな姿だったのだろう。

 

本作でストーリーのキモとなるのは槍の宝蔵院。おいしい場面は胤舜ではなく、月形龍之介演じる日観和尚。最後に武蔵が叫ぶ「殺しておいて合掌念仏。嘘だ!違う!違う!違う!敗れて何の兵法があろう!?剣は念仏ではない!命だ!」のセリフはなかなか熱いが、最初聞き取れなくて何を言っているのか分からなかった。原作にはないセリフだそうで、より野卑な宮本武蔵像が、映画では描かれているのかなと思った。悟りきっていない男、というところだろうか。

 

腕を切ったり、首を刎ねたり、血がドビューと吹き出たりと、ラストの決闘の場面はグロくて楽しい。あの残虐さから坊主の念仏という落差。今作も武蔵が強豪剣士に勝つというような場面はない。

 

ところで、本作が公開された年に原作者の吉川英治は死んでいる。