映画と映像とテクストと

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『恐怖の報酬〈オリジナル完全版〉』を観た

1977年。ウィリアム・フリードキン監督。面白かった。目が離せなかった。もちろんクルーゾー版の『恐怖の報酬』の方が明らかに出来が良くて、一つの作品としてのまとまりもある。特に人物描写やそれぞれのキャラクターの抱える物語は、フリードキン版は結構饒舌に語っている割には、クルーゾー版よりも響いて来ない。つくづくクルーゾー版はすごい作品だったのだと思う。

 

しかし、やはりこのフリードキン版『恐怖の報酬』も凄い面白い作品だ。モンスター映画的な怖さがある。荒削りで、ささくれ立ったような描写の数々には、どこか惹かれる。例えばパリでのレストランのシーン。色彩といい構図といい、実に見せる画を画面に収めているように思う。荒んだ南米の街の大通りを写す場面で、解体した動物を背負うようにして歩く男、彼の背中には動物の血なのか、真っ赤に濡れた姿が、序盤とラストに映る。これもなんというかつい目を惹かれてしまう。フリードキンという人は、強引にこちらの興味を惹くその手管が、実に裏表がない。決して知的でも論理的でもない感じなんだけど、それが一層誠実というか、こちらに寄り添ってくれるような気持ちになる感じがある。

 

これはこれでいい映画、と思う。

 

 

『大いなる西部』を観た

1958年。ウィリアム・ワイラー監督。2時間47分の長丁場。しかし見ていて飽きない。ずっと楽しく見れてしまうのは、すごい。結構、細部は強引だという印象もあるのだけど、それでも「そういうもんかな」と思って見れてしまう。

 

グレゴリー・ペック演じる東部の男ジムの行動規範がよく分からない。暴れ馬のサンダーに乗る練習をなぜ内緒にするのか。牧童頭リーチとの喧嘩をなぜ誰にも知られない時間と場所で行うのか。それがことさら誰かに強さを誇示するためでないからカッコいいのだ、というのはよく分かるし、実際カッコいいと思う。純粋に自分のためだと理解することもできる。しかしやはり謎なのだ。なぜ誰にも求められてないし不要でもあるのに、サンダーに乗ったり喧嘩をするのか。それは他でもない、映画を見ている観客に示すためではないのか?と感じられる。その行為をする必然性をもう少し物語の中で表現して欲しかった気もする。しかし、そんな疑問を感じつつも、やはり楽しく見れてしまうところがこの映画の魅力なんだろうと思う。

 

テリル家とヘネシー家という2つの地元有力者の対決の中でのロマンスというと「ロミオとジュリエット」のような話を想像してしまうが、最後は全く別のヒロインと結ばれるというのも面白い展開。そのヒロインである学校教師が主人公の強さと勇気を見抜き、それを補完するというのは観客の気持ちをくすぐる。西部という力が支配する世界で、知を象徴する教師が正しさを得る。大枠はそういう話なわけだが、テリル家の当主がたった1人で相手方に進軍し遅れて部下たちが付き従うシーンでは、そうした旧来的な力によってねじ伏せようとする男がカッコよくも描かれている。もちろんそういう人物たちは、割りを食うのだけど、それでも単に古臭くてダメな存在としないところに西部劇の良さを感じる。アナクロで保守的なものを簡単に切って捨てない、それは大衆迎合的なのかもしれないが、やはりそこにはある種の懐の深さがある。その点は、テリル家よりも粗野なヘネシー家の当主の描き方からも感じる。最後にどんどん株を上げるヘネシー家当主のルーファスには、乱暴な男だけれど彼なりの正義があることが感じられて面白い。

 

だからこそ、最後、当主同士が撃ち合って、それで死んで、はい終わり、みたいな終わり方にはちょっと納得できなかった。なんというかすごく面白い映画だったのだけど、最後の最後に拍子抜けしてしまったような気がする。

 

『アラバマ物語』を観た

1962年。ロバート・マリガン監督。なんとなくアメリカの小説の中でも基本中の基本という印象があって、でもなかなか食指も伸びなくて読もうとは思わなかった『アラバマ物語』。映画で、とりあえず一通りのお話を押さえることができて(?)、大変良かった。原作ではもう少し語られるのかな?という物足りなさを感じる部分がありつつも、いくつかの名シーンや見どころがあるとても見ていて飽きない作品だった。

 

黒人の弁護を行う法廷ドラマとヒューマニズムの映画を想像していたので、実際に見てみると結構違う印象を受けた。特に序盤の子供達が怪しい隣人ブーの住む家を巡っての行動のくだりはとてもサスペンスフルで、恐怖映画的でもあり、でもちゃんと面白かった。

 

人種差別の問題を、恐怖という視点から切り取ることは、もしかしたら今の時代では描きにくい方法なのかもしれない。差別をする白人たちは、明らかに恐怖によって動いている。それは子供がよく分からない、コミュニケーションが取れない知的障害*1のある隣人ブーを恐れることとさして変わらない。そのように受け取れるところが、今だと、それは差別する側の白人におもねりすぎだとか、知的障害者と黒人を並べて語るのか?とか色々と非難を受けるかもしれない。少なくとも今ならもう少し違うスマートな描き方をしそう。

 

ただ、明らかにこの作品のアティカス(グレゴリー・ペック)は誰よりもカッコよくて、ここにアメリカ人としての理想が1962年の頃からちゃんとあるんだなというのは面白い。裁判の敗北後、法廷から退廷するアティカスを2階席の黒人たちが起立して見送る。とても心温まるシーンで、黒人の牧師が隣にいるアティカスの娘に「ちゃんと立ちなさい」と諭す場面はグッとくる。これを今から60年前にも描いていたアメリカが今なおBLMで揺れているということには、事態の難しさと複雑さに果てし無い気持ちがする。

 

*1:ブーのことを、ここでは知的障害と言っているが、実際にそうなのかどうかはよく分からない。単に無口で引きこもりなだけかもしれない。

『赤穂浪士 天の巻 地の巻』を観た

1956年。松田定次監督。吉良上野介がいかにも金に汚い大人で、浅野内匠頭が繊細で神経質そうな男。そんな、実にベタな忠臣蔵のお話が前半は駆け足で展開する。しかも比較的穏やかな語り口で描かれるため、地味な印象で見ていた。しかし、後半の「地の巻」から俄然盛り上がってくる。とにかく大石内蔵助市川右太衛門が良い。見ていて頼もしくてしょうがない。大石を見ていることが楽しい忠臣蔵は、良い忠臣蔵だ。やはり白眉は立花左近とのシーンだろう。片岡千恵蔵演じる立花の表情がとにかく面白い。この見栄、本当に気持ちがいい。

 

大佛次郎原作の作品で、上杉藩のスパイである堀田という素浪人が出てくるところにオリジナリティがある。最後、この素浪人がどのようにして討ち入りに絡むのか、見ていてワクワクするし、そしてとても綺麗な落とし所であったと思う。大石内蔵助がなぜそんなにも大衆に愛されたのか。忠臣蔵が忠義の物語でありつつ、権力への反抗でもあるという、一粒で二度美味しいプロットであることが、よく分かる。

 

忠臣蔵というと、自分は1985年の年末に日テレでTV放映された『忠臣蔵』(里見浩太朗 主演)が最高の忠臣蔵だと思っていて、どうしても忠臣蔵を見ると、その里見版『忠臣蔵』との差分で色々と評価してしまう。しかし本作はそうした差分で感じる物足りなさはありつつも、とても整然とした手つきの演出が染みる名作だったと感じる。ラストの内蔵助の男泣きも飾らなさが実にいい。とても素敵な忠臣蔵だった。

『宮本武蔵 巌流島の決斗』を観た

1965年。内田吐夢監督。面白かった。確かに全5作の中で、1番を決めたら第4作目の『一乗寺の決斗』になるかもしれない。しかし、この5作目はかなり全体として引き締まっていて、実にテンポよく話が進む。特に長岡佐渡役の片岡千恵蔵が実にいい。武蔵の味方として、その堂々たる感じが見ていて好ましかくて、安心感がある。

 

高倉健佐々木小次郎もなんだか高倉健だと思うと面白くなってしまう。お殿様の里見浩太郎も若い。子役の伊織(金子吉延)は、個人的にはこれまで出ていた城太郎(竹内満)よりも好ましく思えた。派手な戦闘はなく、武蔵も子供を殺してしまったことを闇として背負うような物語であり、陰鬱な雰囲気の物語と思いきや、見た後の味わいとしては意外に清涼感があるようにも思った。

 

また、全五部作を最後まで見て思ったのは、中村錦之助がどんどん魅力的に見えてきたなぁということ。武蔵が画面に映ると、それだけで嬉しくなってしまうし、画面が引き締まったような感じを受ける。なかなか面白い大作だった。

 

『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』を観た

2020年。外崎春雄監督。ブームに乗るのは実に楽しい。というわけで、早速見てきた、劇場版「鬼滅の刃」。TVアニメよりも豪勢になったかなと思うが、概ねTV版の延長として、とても楽しめた。面白かった。

鬼滅の刃」はとってもダサい作品で、あらゆることを言葉や捻りのない表現で説明してしまう。常に説明過多である。何か美しいものがあったとして、例えば炭治郎の心が美しい、と表現するのに「美しい」とそのままの言葉で表現してしまう。あからさまに「美しい」情景で無意識(無意識!)の美しさを表現してしまう。普通、こんなにもあからさまだと恥ずかしくなってしまうわけだが、それを堂々と、そして恥じらいなく表現するところが本当に面白い。

こうした「鬼滅の刃」のダサさを馬鹿にすることは簡単だと思うのだが、やはりこの「美しいものを『美しい』と言ってしまう」やり方というのは、現状、無視できないところがある。だからこそ「こういう鬼滅みたいな分かりやすさやダサさが最近は大切なんだよ」みたいな物言いには、軽薄さを感じるし、そうそう簡単に受け入れてたまるかという気持ちにもなる。確かにこれを良しとする時代感覚との適合は、クリエーターなら商売としては必要なのだろうが、素朴に気の毒に思ってしまう。炭治郎のキャラクターの表裏の無さというのも、そういったものとおそらく通底しているのだろう。*1

それより、この「鬼滅の刃」という作品が面白いのは、とても「ポリコレ」であるところだ。オタクには嫌われがちな「ポリコレ」がここでは受け入れられていることは、とても面白い現象だと思う。「ポリコレ」などという言葉自体がアンチポリコレ的なものだと思う人もいるかもしれないが、ポリコレはもはや常識となりつつある支配的なイデオロギーなのだと「鬼滅の刃」の人気っぷりを見ているとつくづく感じる。

 

鬼滅の刃」のどのような点をポリコレと感じたのか。上手く説明できないところもあるのだけど、思いつくところを列挙してみたい。

まずは炭治郎の顔の傷。おそらく少年漫画で顔の傷を持つ人物というのはいっぱいいると思うのだけど、こんなにも「カッコよさ」に貢献しない大きな傷を持つ人物は珍しいのではないだろうか。わりとキレイな顔立ちなのに、純粋に減点となりそうな傷のある主人公は新鮮に感じた。

ラッキースケベ的なものの無さも感じる。最近は批判される事も多いラッキースケベだが、(アニメしか見てないので原作では分からないが)「鬼滅の刃」では全然そういうシーンが無いという印象がある。善逸は少年漫画でありがちな女の尻を追っかける系キャラだけど、善逸の女の求め方って「奇妙」で、どこか性欲を感じない。これは男の人だと理解してもらいやすいかもしれない。これは今までの女好き男性キャラに感じていた性欲の刹那性みたいなものを感じないということだ。ラッキースケベがあまり無いように思えるのも、そうした少年漫画が描いてきた刹那の(その場だけの)快楽との距離を感じるということかもしれない。ただ、これをポリコレと言っていいかはよく分からないし、そうしたラッキースケベがない少年漫画は他にもいっぱいあるので、「鬼滅の刃」特有の話とするのは牽強付会かもしれない。

あと、これはもう感触というものでしかないが、「鬼滅の刃」はかなり意識的にポリコレ地雷を踏まないようにしているという印象がある。もちろんネット上には「鬼滅の刃」にもジェンダーバイアスを示すセリフがあるというツッコミはある。しかし、主人公レベルの主要キャラが「お?それはちょっとアウトじゃね?」と思うセリフを全然言わない*2。例えば、伊之助などは野蛮な生まれなのに、不自然なほどに地雷を踏まない。彼は人道的に大きく踏み外すことは言ったりやったりするのに、微妙にポリコレでアウトなことは不思議と言わない。これはやはり作り手の意識を感じさせる。

そして、本作『無限列車編』では、ダイレクトに「弱者は死んで当然」と語る敵が登場する。そしてそれを「嫌いだ」として議論の余地なく主人公側は否定する(煉獄さんのセリフ)。もちろん「鬼滅の刃」の「ポリコレ」は素朴なエリーティズム(強い者が弱い者を守るべき)によって根拠づけており、それをポリコレと呼んで良いのかはよく分からない。それをパターナリズムとして批判することも可能だろう。しかし、内面化されたポリコレの自然な表出として、「鬼滅の刃」は随所にその顔を見せる。そのあまりの自然さがすごい。そしてそれを多くの人がほとんど無意識に受け入れていることがすごい。一昔前の漫画を読むと、あれもこれもアウトそうだな、と普段ポリコレなんて意識しない人でも気付くように、みんななっているのではないかと思う。

細かい話になるが、個人的に面白かったのは、鬼に操られた人間の1人が炭治郎のことを「なんか存在がシャクに触る」と表現していたところだ。これはとてもアンチポリコレの実感を表現しているように思える。「その理屈の正しさとかは置いておいて、ポリコレ的なものの存在それ自体がシャクにさわる」という感じ。炭治郎はとにかく政治的に正しい存在である。あまりに正しすぎて、その正しさがほとんど奇人のレベルに到達している。彼の「公正さ」は一種の特殊能力のようにさえ描かれている。鬼の側に堕してしまった人間から見ると、それはとてもシャクに触る存在だろう。操られた人間のうちの1人だけが改心するが、その人間は炭治郎の「異常な」心の美しさを目撃した人間であった。炭治郎は「おかしな」人間である。その正しさ、美しさが異常なのだ。しかしできればそうありたい、ポリコレ的に正しい存在になりたいという憧れが実はあるのではないだろうか。ポリコレがなんらかの制約や縛りだと捉えられている反面、現代は既にポリコレを「憧れのモノ」にしているのかもしれない。手に入れようと思ってもなかなか完全には手に入らないが、否定しようと思っても否定できない正義。特殊なエリートだけが100%我がモノにできる行動様式。ポリコレはもはや欲望の対象になっているようなところがある。だからこそ憎まれもする。そしてその一部は内面化され、当たり前のことになっている。この辺りがポリコレへのモヤモヤになっているように思う。

『無限列車編』は後半、とにかく泣かせにかかってくる。現場の登場人物のほぼ全員が、そしてカラスでさえ泣いている。泣いていることを肯定しすぎである。その底抜けの素朴さはとても滑稽ではあるのだけど、どこか笑えないようなところがある。

 

*1:ダサいものはダサい。しかし、それで良いという気もする。しかし……。と、しかしの逆接がループする。とは言え、最後は「まあ、少年漫画だしな」に帰着する気もします。

*2:炭治郎の有名な「長男だったから我慢できた」みたいなセリフはポリコレアウトだろうという批判もあると思うが、あれはあからさまにギャグとして言っているものだと理解している。ポリコレアウトな発言は意識的なものも勿論あるが、それはかなり意思を持って主張される場合である。アウトな発言のほとんどが無意識でされていることが多いし、その無意識さにこそ問題がある、という辺りが2010年代以降は主戦場のように感じている。違うかもしれない

『プラダを着た悪魔』を観た

2006年。デヴィッド・フランケル監督。面白かった。テンポも良くて、細部も品がいい。原作に比べてミランダ(メリル・ストリープ)はより甘くなってる感じもあるそうだが、それはそれでエンタメ的で悪くなかったと思う。アン・ハサウェイのかわいさもさることながら、メリル・ストリープがとにかく素敵だった。ファッションに全く興味のない自分にとっても、なんだかきらびやかなファッション業界がとても素敵に見えた。覚悟が決まっている人間は実に気持ちがいい。

 

最後に元彼との元さやに収まる感じなど、やや残念な感じもあるだろうが、そういうのも含めて、きらびやかな世界を自ら去っていく展開なのは興味深いと思った。その生き様が2006年という時代の感覚として共感得るものとしてあっただろうことが面白い。2020年の今では、より一層「あんなドギツそうな世界より普通の新聞記者の方がいいでしょ」となるのだろうか、それとも「あんな好条件なキャリアを活用しないなんてもったいないでしょう?」となるのだろうか。なんとなく前者の人の方が今だとより多そうな気がするがどうなんだろうか。ロマンや夢が、一筋縄でいかない、意外に複雑な欲望の絡み合いなのだと示しているように思えるところが、この作品の魅力のように感じた。