映画と映像とテクストと

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『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を観た

キングコング 髑髏島の巨神』があまりに酷く、ギャレゴジは面白かったけど虚無な感じであったが、本作は良かった。ゴジラ映画は初代と『シン・ゴジラ』は楽しんだ。だが、いわゆる平成ゴジラはほぼ食わず嫌いで、ビオランテは見たはずだが、内容をほとんど覚えていないし、楽しかったという記憶もない。それゆえ本作も楽しめないのではないかと見る前は思っていた。なのでこれだけ楽しめたのは意外だった。

 

この映画は「こちら側」の映画だった。「こちら側」というのをうまく表現できなくてもどかしいのだが、ザック・スナイダーの映画が典型的に表現している世界をイメージしている。『エンドゲーム』は「あちら側」の作品であり、真逆の作品。この事を感じ取るかどうかが、本作への大きなスタンスの違いとなると思う。

 

ザック・スナイダーの映画以降、そういう「こちら側」の映画が数々登場していると思っている。この話がちゃんと語られているのは書籍としては『人間から遠く離れて』(トポフィル、2017)しか寡聞にして知らない。具体的な作品だと、最近では『キャプテン・マーベル』などがその1つ。本作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を観て、特定の周波数に導かれるように、その感覚を得た人もいるだろう。

 

物語の序盤、人間たちの「人間らしくなさ」が際立っている。単にドラマとして下手なのかそれとも演出なのか、正直僕には分からないが、人が人らしく生きる世界の「リアルで無さ」に共感を覚える。怪獣たちの方がよほど「それ」らしい。しかしそんな怪獣が暴れたら人間などひとたまりもなく、人間らしい社会などは一瞬で消し飛んでしまう。

 

怪獣プロレスが強調されて、人間ドラマが薄いのは、俺たちオタクの味方なんだと安易に喜ぶのはあまりに素朴だろう。ここには現代のイデオロギーで救われないけど、かといって近代的で人間中心主義的な価値観も完全に破壊するなんてできないという、非常にどっちつかずの今という時代を写した葛藤がある。

 

核兵器は人間を不幸にすると唱えるのも白々しい。だからと言って、平和と博愛を嘘くさいお花畑だとバカにしたいわけではない」そんな「脱ポリティカル」だからこそ、核兵器を「単純に」使う。人類のために。

 

それはある種のポストトゥルース的な反動なのか?というと単純にそうではないと思う。ただ、人は追い詰められたら「そうする」ということの表明である。人間は本当に追い詰められた時には、トロッコ問題で悩んだり熟議したりはしない。「大義のために大勢の人間を殺す」そんな決断を、母親という属性の人間が娘の前で行うシーンがあるのはなぜなのか。単なる反動でもノスタルジーでもなく、むしろ頭のおかしい自然保護団体のテロリストはもっともっとリアルで身近な存在になっている(母親でさえそうなのだ)ということの表現だろう。現実世界では自然保護団体という見え方はしていないだけの話でしかない。そういう存在が脱ポリティックスして(したと思い込んで)、結果として極端にポリティカルな行動をおこなっているというあまりに卑近なリアル。

 

「でも、結局それは反動じゃないか」とやっぱり批判することはできるし、それもある意味では正しいとは思う。しかしなぜザック・スナイダーがスーパーマンを復活し、今回マイケル・ドハティがゴジラを復活させたのか、その事の時代的な意味がもっと追求されるべきだ。人の命が救われる事は絶対に正しい。それを否定しているのではない。それは受け入れている。しかしその「生きていることこそ全て」という価値観に押し潰された先にある「超えられなさ」、オタク的心性のやりどころこそが求められている。それをあんまり無教養な救世主願望だのヒーロー願望だのとバカにしてはいけない。おみくじに人は「端的に」救われることもあるのだ。それは決してオタクだけではないだろう。

 

特に終盤とかド下手クソな部分*1もあるけれど、「こちら側」の映画である事は間違いない。その意味で、『ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ』はすごい作品だと思う。

 

次の作品も見たい。

*1:これも意図的なのかなんなのかよく分からないけど、娘を家族みんなで救うくだりとかひどい。あそこは家族みんなで踏み潰される方が良かった。しかしまあ、なんでも良いという気もする