映画と映像とテクストと

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『風立ちぬ』を観た

2013年。宮崎駿監督。面白いよね。やっぱり。面白い。大野佐紀子さんの以下の記事ががまずど真ん中の感想としてあると思う。

「男の子」は高いところばかり見ている(あるいは昔、飛行機乗りだった父へ)‥‥『風立ちぬ』感想 - ohnosakiko’s blog

こうした子供っぽいワガママさと芸術や崇高なモノへの追求の話って、欲望の話になると途端につまらないものになってしまうことがある。例えばそれが『シン・エヴァ』だったりするだろう(ゲンドウの欲望、シンジの欲望)。宮崎駿は簡単には欲望の話にしない。けれどまあ、宮崎駿だってフェティシズムであり、結局それは欲望の話だろ?という見方もあるのだけど、もっと有り体に言うと、宮崎駿はエロの話にしないという感じがある。庵野秀明などはすぐにエロくしてしまうけれど(ロボットとかスーツとか人間関係とか)、そういうささやかな節度が宮崎駿にはある気がするし、そのことによってわかりやすくなってる面はあると思う。性癖の話のようでいて、性癖の話でもなくて、でもやっぱり性癖の話かなぁ、うーんといった境界線に漂うからこそ、分かりやすい。「生きねば」みたいな安易な話に接続しても、それはそうかもなと思えてしまう。

こう考えると「幼稚」とか「子供っぽい」という作品への批評の言葉は中々難しさがあると考える。『風立ちぬ』だって、やはり相当に子供っぽさを肯定する話であるし、確かに語り口は「幼稚」というには複雑であるのだけど、「子供らしい純粋さ」というものを担ぎ出して、それを讃える面はありきたりと言えばありきたりだ。いや、もちろんテーマが「子供っぽさ」であるからと言って、作品が幼稚だとは限らない。しかし宮崎駿の「純粋さを肯定する」という姿勢がそこまで複雑で大人びているとも思えない。では庵野と宮崎を分けるものは一体なんだろうか。『会議は踊る』をドイツ語で歌ってしまうような教養とか、そういうものだろうか。もちろんそれもあるかもしれないが、ここで宮崎駿が「子供っぽさ」から距離を置けているのは、意味よりもかたちへのこだわりの強さにあるのではないだろうか。もちろんアニメーションとして庵野秀明もかたちには並々ならぬ感心を持っているが、どうも意味への回収というのをしがちのように思う。エヴァによってレゾンデートルなんて言葉が流行ったりしたが、存在の意義とか、そういうものを借りてきて世界を描くのではなくて、意味よりもまずそこにかたちがあるのだという開き直りが宮崎駿の場合、かえって「大人びて」見える作用をもたらしているように思う。トトロがいることに意味はない。ただそこにトトロという形があるのだという開き直り。飛行機は飛ぶ、美しいということ、飛行機が落とす爆弾で人が死ぬことの意味さえ、どこか置き去りにするような諦めこそが、宮崎駿を大人に見せてしまっている。それは、宮崎駿が「意外にも」国民的な作家であることと繋がっているような気がする。