映画と映像とテクストと

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『トップガン マーヴェリック』を観た

2022年。ジョセフ・コシンスキー監督。面白かった。途中、中だるみした感じはあったが、終盤の流れが実に見事で素晴らしい見応えになったと思う。

前作の『トップガン』(1986年)を見てから3時間後ぐらいに本作を見たため、「おー!あれ!あの場面、おー!」と色々確認できて楽しかった。特に中盤のビーチでアメフトをする場面では、あまりの律儀ぶりに劇場でのけぞってしまった。前作と違い、なぜビーチでみんなで遊ぶのかの説明があるところも今風である。

オープニングが分かりやすく盛り上がる。速度がマッハ10にデジタルの数値が近づくスリルと、墜落からの「地球だよ」までのお茶目なノリは実にアメリカンで参る。少将役のエド・ハリスがダークスターの超高速による風圧に負けないで仁王立ちするノリも本当になんというか無邪気でバカで、でも強くて素敵なアメリカ人という感じがして好感しかない。この好感こそが最もクソむかつくモノであり、この化石のような価値観がいかに魅力的であるかをとことん感じさせる。

ヒロインのペニーはジェニファー・コネリー。現在51歳。しかしそれは前作ヒロインのチャーリーこと、ケリー・マグギリス(今年2022年で64歳)ではない。主人公のトム・クルーズは本人であるのに、女はやはりもう少し綺麗でなくてはヒロインになれないのだと、無情さを感じさせる。それでもただの若い女ではないところなど、ギリギリ許される範囲がどこなのかをちゃんと探って、正解を見つけているところも、いちいちムカつく感じで、よくできている。しかし、生徒たちのビーチアメフトに彼女を連れてくる教官とは一体なんなのか。いいのか?いいのか、トム・クルーズだから。いいんだろう。ところで、あのペニーはなぜあんなに金を持っているのだろうか。話をちゃんと聞いていなかったため、よく分からなかった。ヨットとポルシェを持っている飲み屋の女主人って何者なのだ。しかしまあ、いいか、ジェニファー・コネリーは金を持っているのだろう。

ラストの空母への帰艦もまた前作をなぞっている。艦橋への煽りもまた繰り返される。繰り返されるはずのない歴史が繰り返される嬉しさ。見ると楽しくなってしまい、そのこと自体がどうしようもなく哀しいような、でも楽しめたから良いじゃないかというような、諦めに似た心地よさ。この映画がもてはやされる時代は幸せなんだろうか。そんなことを心の片隅で考えなくはない。しかし、良いのだと思う。

前作のシーンが普通に動画として挿入され、前作を見ていなくてもほぼ理解できてしまうところは実に親切だった。なぜグースの息子を本隊として採用したのか、それはヴァイパーがなぜマーヴェリックを卒業式でのミッションに採用したのか、それと同じで説明はなくて良いのだろう。結果が全てであるというある意味恐ろしい価値観をここまで素朴に美しいものとして見せられるとゾッとする面はあるものの、そんな小賢しいことを言っても、大なり小なり世界はそうなのかもしれないとも思い直す。この映画が興行収入としてもヒットしていることを考えると、確かに結果が持つ雄弁さにはなかなか太刀打ちできない。

しかし前作の大人たちの方が、少しだけ複雑だったような気もする。ヴァイパーは「忘れるしかない。忘れるな」と言った。はたしてマーヴェリックはそんな複雑なことを言うだろうか。「考えるな」とマーヴェリックは言った。彼のいつまでも変わらない子供らしさ。それを賞賛する今という時代。そんなことを思うと、ふと、アイスマンは古い男だったのかもしれない、と感じる。そこもまた『トップガン マーヴェリック』が持つ巧みさであるだろう。